第68話
文字数 1,221文字
「大部分の貴族は、わたしに刃向かう勇気は持ち合わせておらぬ。だが補佐官は先帝からの腹心ということもあり、わたしに対して挑戦的になっている。表立ってはいないが、あれの腹の内くらい判る。イザベラ、エリーゼを初めとする我が腹心たちを、そなたの近辺につける。必ず守る」
思わずイザベラは呻いた。自分を心から望んでいる――いくら疎いイザベラでも、ここまでの真心を見せられたら、心が揺れ動く。
「そしてイザベラ、昨夜どうしても告げたかったことがある」
「な、なに?」
酒は一切口にしていないのに、呂律が回らない。この部屋に漂う妙に重い、ねっとりとした濃密な空気に息が苦しくなる。しかし次に発せられたクレメンスの言葉に、彼女は言葉を失った。
「そなたの弟君ロベルトと、オスティ将軍は生きている。プラテリーア公国の領民を、誰ひとりとして傷つけてはいない」
静寂が場を支配している。どういう訳か風もやんだらしく、先ほどまで小さく揺らされていた窓の音もピタリと止まっている。時が一瞬にして止まってしまったのかと思われるほどの沈黙は長く続かず、再び注がれる葡萄酒の音が大きく響いた。
クレメンスは無言で酒を飲む。イザベラも無言で、今の台詞を反芻する。顔には表れていないが彼女の心は、千々に乱れている。あれほど知りたかった弟の安否、そして領民の無事が心を乱す。思わず目の前のグラスを取り、ひと息に飲み干す。空になったグラスに無言でクレメンスは酒を注ぎ、イザベラは一気にまた飲み干した。普段酒をたしなまない彼女の頬がやがて染まり、目のふちも赤くなった。
「ほ、本当なのか」
「嘘偽りは一切申しておらぬ。弟君はオスティ将軍とともに国境付近のサナトリウムで療養している」
かっと胸が熱くなる。弟が、そして傳役のオスティが生きている! このことにイザベラの思考は止まり、目の前の男を見る目が熱いものとなる。何か言葉を発そうとするが、口は動いてくれない。
「今宵はそのことを告げに来た。ゆっくりと身体を休めるがよい」
「待て」
「どうした」
「わ、私を后にしなくてもいいのか」
何もしないで出て行こうとする姿に、イザベラは疑問を抱いた。
「婚儀がすむまでは──いや、済んだとしてもそなたの心が開かれぬ限り、私は話をしに来るのみ」
「一生、心を開かぬかも知れぬぞ」
「その時はその時。叔父上に帝位を譲るとしよう」
薄く笑ってクレメンスは、そのまま立ち去った。ひとり残されたイザベラは、クレメンスが使っていたグラスを手に取ると、うっすらと涙を浮かべた。
「側妾を迎えて跡継ぎを得るという考えはないのか、あの男には。どうして、そこまでして私を」
ぽろぽろ、ぽろぽろとこぼれる涙はグラスの中に落ちていく。
イザベラはこの夜、初めてクレメンスという男に興味を覚えた。それはまだほんの小さな、欠片のような想いであった。その小さな小さな想いを自覚することを拒むように彼女は、ネックレスの貴石を無意識に握りしめていた。
思わずイザベラは呻いた。自分を心から望んでいる――いくら疎いイザベラでも、ここまでの真心を見せられたら、心が揺れ動く。
「そしてイザベラ、昨夜どうしても告げたかったことがある」
「な、なに?」
酒は一切口にしていないのに、呂律が回らない。この部屋に漂う妙に重い、ねっとりとした濃密な空気に息が苦しくなる。しかし次に発せられたクレメンスの言葉に、彼女は言葉を失った。
「そなたの弟君ロベルトと、オスティ将軍は生きている。プラテリーア公国の領民を、誰ひとりとして傷つけてはいない」
静寂が場を支配している。どういう訳か風もやんだらしく、先ほどまで小さく揺らされていた窓の音もピタリと止まっている。時が一瞬にして止まってしまったのかと思われるほどの沈黙は長く続かず、再び注がれる葡萄酒の音が大きく響いた。
クレメンスは無言で酒を飲む。イザベラも無言で、今の台詞を反芻する。顔には表れていないが彼女の心は、千々に乱れている。あれほど知りたかった弟の安否、そして領民の無事が心を乱す。思わず目の前のグラスを取り、ひと息に飲み干す。空になったグラスに無言でクレメンスは酒を注ぎ、イザベラは一気にまた飲み干した。普段酒をたしなまない彼女の頬がやがて染まり、目のふちも赤くなった。
「ほ、本当なのか」
「嘘偽りは一切申しておらぬ。弟君はオスティ将軍とともに国境付近のサナトリウムで療養している」
かっと胸が熱くなる。弟が、そして傳役のオスティが生きている! このことにイザベラの思考は止まり、目の前の男を見る目が熱いものとなる。何か言葉を発そうとするが、口は動いてくれない。
「今宵はそのことを告げに来た。ゆっくりと身体を休めるがよい」
「待て」
「どうした」
「わ、私を后にしなくてもいいのか」
何もしないで出て行こうとする姿に、イザベラは疑問を抱いた。
「婚儀がすむまでは──いや、済んだとしてもそなたの心が開かれぬ限り、私は話をしに来るのみ」
「一生、心を開かぬかも知れぬぞ」
「その時はその時。叔父上に帝位を譲るとしよう」
薄く笑ってクレメンスは、そのまま立ち去った。ひとり残されたイザベラは、クレメンスが使っていたグラスを手に取ると、うっすらと涙を浮かべた。
「側妾を迎えて跡継ぎを得るという考えはないのか、あの男には。どうして、そこまでして私を」
ぽろぽろ、ぽろぽろとこぼれる涙はグラスの中に落ちていく。
イザベラはこの夜、初めてクレメンスという男に興味を覚えた。それはまだほんの小さな、欠片のような想いであった。その小さな小さな想いを自覚することを拒むように彼女は、ネックレスの貴石を無意識に握りしめていた。