第1話
文字数 1,107文字
ピンと痛いくらいに、空気が張り詰めていた。風は凪ぎ、鳥たちですらこの異様な緊迫感に圧倒されたのか、羽ばたこうともしない。豪奢な寝台に横たわった初老の男は、先刻から荒い息を吐き、苦しそうに呻いていた。
カサカサに乾いた肌には潤いというものがなく、目は落ちくぼみ、ひゅうひゅうと呼吸音が漏れている。戦女神アシオーの血を引く皇帝が今、死神の腕に抱かれようとしている。苛烈帝として近隣諸国を震え上がらせた、かつての面影は今はない。痩せこけ、枯れ枝のような肢体を横たえている姿は、哀れに見える。診察を許された医師のみが、皇帝ゲオルグの傍に侍っていた。信頼の厚い宰相のハインリヒでさえ、今回は中に入ることを許されなかった。
「皇太子殿下は、まだ戻られぬか?」
宰相は先刻から焦りを隠せない。皇帝の命が今にも終わろうとするのに、皇太子クレメンスは父帝の名代で、神殿の地鎮祭に出席している。早馬の報せでは、もうそろそろ、このレーヴェ宮殿に帰り着くはずなのだが。
「殿下、お急ぎを」
祈りにも似た呟きは、もう何度目だろうか。数えることはすでに放棄している。じりじりと身を焦がすような、時間だけがいたずらに過ぎていく。いかつい顔の軍人も、ツンと澄ました神官や女官たちも、普段とは違い色を失っている。祈りを捧げ、皇太子が帰ってくることをひたすらに願うしかできない。やがて宮殿の表が騒がしくなった。待ち焦がれた皇太子クレメンスが帰還したのだ。
「おお、皇太子殿下」
宮殿中の者が頭をたれ道をあける。式典用の礼装を解く間もなく、皇太子は駆けつけてきた宰相の出迎えを受けた。普段は陰鬱な雰囲気が顔面に出ており、薄気味悪いほどに表情が変わらない宰相だが、今は流石に焦りと安堵が入り交じった表情が滲み出ていた。
「殿下、お急ぎくださいませ」
「判っている。父上の容態は?」
「芳しくございません。侍医の見立てでは、もう」
「そうか」
それきり皇太子は口を真一文字に引き結び、沈黙してしまった。短く刈り込んだ黒髪、精悍な顔つきは猛禽類を思わせる。しかしそれも表向きの顔で、心を許した人間に対しては、やわらかな雰囲気を纏ってくれる。澄んだ湖のような薄い青の瞳は少々冷たい印象を与えるが、彫刻のような美男であることには違いない。背も高く、肩幅が広い。若いが威風堂々とした青年がそこにいる。足は速くなり、いつしか小走りになっている。長い廊下を進み、道を譲る臣下の間を抜けて、彼は大きな扉に近づく。
「皇太子殿下の、ご到着である」
宰相のひと声に、衛兵たちが扉を開けた。左右に大きく開かれたそこへ身体を滑り込ませると、余人の侵入を拒むかのように、再び閉じられてしまった。
カサカサに乾いた肌には潤いというものがなく、目は落ちくぼみ、ひゅうひゅうと呼吸音が漏れている。戦女神アシオーの血を引く皇帝が今、死神の腕に抱かれようとしている。苛烈帝として近隣諸国を震え上がらせた、かつての面影は今はない。痩せこけ、枯れ枝のような肢体を横たえている姿は、哀れに見える。診察を許された医師のみが、皇帝ゲオルグの傍に侍っていた。信頼の厚い宰相のハインリヒでさえ、今回は中に入ることを許されなかった。
「皇太子殿下は、まだ戻られぬか?」
宰相は先刻から焦りを隠せない。皇帝の命が今にも終わろうとするのに、皇太子クレメンスは父帝の名代で、神殿の地鎮祭に出席している。早馬の報せでは、もうそろそろ、このレーヴェ宮殿に帰り着くはずなのだが。
「殿下、お急ぎを」
祈りにも似た呟きは、もう何度目だろうか。数えることはすでに放棄している。じりじりと身を焦がすような、時間だけがいたずらに過ぎていく。いかつい顔の軍人も、ツンと澄ました神官や女官たちも、普段とは違い色を失っている。祈りを捧げ、皇太子が帰ってくることをひたすらに願うしかできない。やがて宮殿の表が騒がしくなった。待ち焦がれた皇太子クレメンスが帰還したのだ。
「おお、皇太子殿下」
宮殿中の者が頭をたれ道をあける。式典用の礼装を解く間もなく、皇太子は駆けつけてきた宰相の出迎えを受けた。普段は陰鬱な雰囲気が顔面に出ており、薄気味悪いほどに表情が変わらない宰相だが、今は流石に焦りと安堵が入り交じった表情が滲み出ていた。
「殿下、お急ぎくださいませ」
「判っている。父上の容態は?」
「芳しくございません。侍医の見立てでは、もう」
「そうか」
それきり皇太子は口を真一文字に引き結び、沈黙してしまった。短く刈り込んだ黒髪、精悍な顔つきは猛禽類を思わせる。しかしそれも表向きの顔で、心を許した人間に対しては、やわらかな雰囲気を纏ってくれる。澄んだ湖のような薄い青の瞳は少々冷たい印象を与えるが、彫刻のような美男であることには違いない。背も高く、肩幅が広い。若いが威風堂々とした青年がそこにいる。足は速くなり、いつしか小走りになっている。長い廊下を進み、道を譲る臣下の間を抜けて、彼は大きな扉に近づく。
「皇太子殿下の、ご到着である」
宰相のひと声に、衛兵たちが扉を開けた。左右に大きく開かれたそこへ身体を滑り込ませると、余人の侵入を拒むかのように、再び閉じられてしまった。