第70話

文字数 1,269文字

 婚儀を挙げていないため、正式に后となっていない二人が顔を合わせるのは、朝と夜のひと時のみ。特に夜は、近頃は毎日とはいかず、イザベラの心が何故か落ち着かなくなる。

(どうしたというのだ、私としたことが)

 乱される心中を見透かされたくないかのように、キルシュ相手に剣を振るうようになった。時には槍や戦斧といった武器を使い、実戦を想定して剣以外での稽古はむしろ、キルシュに対してとなっている。

 と、不意に。場がざわめいた。己の思考に耽っていたイザベラが何事かと目を向け、思わず瞠目した。クレメンスが簡素な闘着をまとい現れたからだ。

「これは陛下」

 慌てて女官たちやキルシュが膝を折る。

「書類ばかり相手にしていては身体が鈍る……久しぶりに、な」

 そう言ってキルシュから訓練用の剣を受け取ると、じっとこちらを凝視しているイザベラに穏やかな目を向ける。

「相手をしてくれないか。噂に名高い姫将軍、戦乙女の手並みを拝見したい」
「よかろう」

 思わぬ出現にドキリとしたが、勝負となれば彼女も戦士としての顔に切り替わる。二人は間合いをとって向かい合うと、剣を構えた。

 思わず内心でイザベラは呻く。腕に覚えのある者は対峙しただけで、相手の力量を見抜ける。

(さすがは皇帝。動けない、これは瞬時に斬られる)

 クレメンスは何気なく構えているように見えて実は、どこから斬りかかっても受け流すことができる。ならば、とイザベラも殺気を消し、己が最も得手とする構えを取った。

(ほう)

 今度はクレメンスが感嘆の息を吐く番だった。彼女の剣は一見すると剣先が下がっているが、隙が見当たらない。彼女の腕が相当なものであることが見て取れる。これで盾があれば攻防一体となり完璧だ。

じりじりと両者は睨みあったまま、ゆっくりと円を描くように移動する。張り詰めた空気が漂う。見守っていたキルシュは目の端で、何かがチラリと動くのを捉えた。頭を動かさず目だけをそちらに向けると、弓を構えた男が見えた。

(あの方角だと狙いは!)

「危のうございます!」

 叫びながらキルシュがイザベラを突き飛ばす。刹那、今しがた彼女が立っていたところに矢が突き刺さった。

「キルシュ!」

 イザベラ、クレメンスともに声をあげた。今の矢は彼の足を掠めただけで、傷口を押さえてうずくまる。

「ど、毒矢にございます……」

 よほど強力な毒らしく、見る見るうちに顔が青黒くなっていく。クレメンスが解毒の呪文を唱える。その頃には腕に覚えのある女官たちが曲者を取り押さえに走り、エリーゼは素早く懐剣を引き抜くとイザベラを守るようにして立つ。

「これでいい。今夜は熱が出るだろうが、命に別条はない」

 呪文による解毒が終わると、脂汗を浮かべたキルシュは苦しそうに目を閉じている。

「キルシュ」
「ご無事で何よりです」

 イザベラに対し、弱々しいが受け答えをする姿を見て、ようやく彼女は安堵の息を吐いた。クレメンスとの勝負に全神経を注ぐあまり、自分を狙う刺客に気付かなかった。ここしばらく平穏だったとはいえ、命を狙われていることに変わりはなかったというのに。
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