第100話

文字数 1,539文字

「キルシュ、キルシュ!」
「イザベラ様、興奮されてはいけません。お身体に障ります」

 目の前で自分を庇った部下が地面に呑まれていった様を見て、イザベラは取り乱しそうになった。エリーゼが慌てて腹部に触らないよう羽交い絞めにし、暴れる皇后を押さえる。

 大神官は急ぎ結界を解き、退魔呪文を唱えた。クレメンスも同時に呪文を唱え、ハインリヒ目がけて放つ。負けじとハインリヒも黒き魔界の炎を召喚し己の周りに放つが、合同の神聖呪文は炎もろともハインリヒを包んだ。

「身も心も堕ちたハインリヒよ、お前に相応しい場へ行け」

 クレメンスの声と同時に、光が天へと太い柱になって伸びた。

「おのれクレメンス。覚えておれ」

 黒き衣が裂け、ドロドロと腐った肉片を撒き散らしながら、ハインリヒは光の柱の中に消えていった。地面に落ちた腐臭を放つ肉片はやがて、互いに求め合うかのように近付きひとつになると地面へと吸い込まれていった。

 だが誰も肉片の行方など気にしなかった。そんな余裕など、なかったのだ。

「無事かイザベラ」
「陛下、キルシュが」
「残念だが彼は、任務を遂行した」

 任務とはイザベラを護ること。判ってはいたが、目の前でまたも命が奪われたことが悲しかった。クレメンスの傍らに立つヨハネも有能な部下を眼前で喪い、沈痛な表情を隠そうともしない。

「私が前線に赴かなければ、このようなことには」

 自嘲と自戒を込めて呟くと、クヴァンツ大将が進み出て膝をついた。

「皇后陛下が前線に来られたこと、決して間違いではございません。兵士たちの士気は確実に上がりましたぞ。御懐妊された皇后陛下が、国のために戦場に出てきた。このことだけでも今まで皇后陛下を快く思わなかった連中も、見る目が変わってくるでしょう」

「クヴァンツ大将」
「その通りだ、イザベラ」

 クレメンスが后の身体を労わるように肩を抱く。その温かさに彼女は軽く息を吐いた。

「そなたが国のために、流産の危険を冒してまでも謀反人討伐のために動いた。そなたに不満を持つ貴族たちも、見直さざるを得まい」
「ですがキルシュを」
「丁重に、手厚く御霊を慰める。わたしには、それくらいしかできん」

 もちろん、今の戦闘で命を落とした多くの兵士たちもなと、クレメンスは続けた。ほっとした瞬間、それまで張り詰めていたものが一気に緩んだせいか、イザベラは急激に疲労感と倦怠感を覚え、身体を支えることができなくなった。

「よく頑張ったなイザベラ、もう大丈夫だ」

 愛しげに囁かれる夫の声に小さく頷くと、ふわりと身体が浮き横抱きにされる。

「皆は皇宮へ戻れ、わたしたちと大神官は大神殿へ行く」

 神像の血の涙の意味は、ハインリヒの謀反を嘆いたものだったのだろうか。あろうことか神聖なこの国に魔族の侵入を許したことへの、女神の嘆きが血涙となったのかもしれない。

「アシオー女神にも報告せねばな。御子が宿っていると」
「ええ」

 横抱きにされたまま輿に乗り、二人は大神殿へと向かう。神官たちも後に続き、結界の張られた大神殿は皇帝と皇后の到着に慌てふためく。

「おお、もう涙は流されていない」

 神像の目や頬に、血の痕は一切なかった。まるで夢や幻を見せられていたのかと錯覚を覚えるほど、神像は元の美しい状態だった。

「二人でこの国を護ることを、次代に譲ることを、改めて誓います」

 神々しい神像に向け、ベルンハルトは誓った。無表情のはずのアシオー女神像が少し、微笑んだように見えた。


        了
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