第90話

文字数 1,126文字

「おじいさま、少しでも召し上がらないと」
「そこに置いておいてくれベティ。今日は必ず食べるから」

 嘘、とベアトリクスは内心で祖父を(なじ)った。だが彼女は素直に置くと、その場を去った。なにか言い表しようのない不安を覚えたからだ。

 孫娘の気配が完全に消えたことを確認すると、ハインリヒは幾重にも封印が施された黒い箱を、書棚の奥にある隠し扉から見つけた。

「これだ、ついに見つけたぞ。ふははは、これで奴らを殺せる!」

 ギラついた目には狂気が浮かんでいる。書庫の床にある、よく見なければ判らないほどの小さな魔方陣に、ハインリヒは静かに魔力を流す。するとそれは黒い光を放ち、やがて把手へと変化した。

 人がひとりは入れるほどの入り口は、代々の当主しか知らないもの。病死した先代当主以外でこの入り口を知る者は、もはやハインリヒのみとなった。

 地下にも広大な部屋があり、部屋の八割を占めるほどの魔法陣が描かれていた。見る者が見れば、神聖な帝国に相応しくない魔界に通じる魔法陣だと判るだろう。

 もう一度ベアトリクスを呼び寄せると、彼女の手首を掴むと地下室へと下りていく。なんとも言いようのない禍々しい空気を敏感に感じ取り、ベアトリクスは反射的に祖父の手を振りほどいた。

「おじいさま何故ですか。陛下のお后になる方を殺めようなど、何故そんな愚かなことをなさったのですか。お陰でマクシミリアン様にお会いできなくなりました!」

 祖父をなじりつつ、恋する男に会えない怨み辛みを切々と訴える。十六歳の娘にとって、近衛騎士団団長は憧れであると同時に身分的にも問題のない、もしかしたら婚約できたかもしれない存在だったのだ。それを祖父がしでかした大罪のせいで、若い娘の恋心は無残にも打ち砕かれ、将来への希望も絶たれてしまった。

 「黙れベティ。お前はわしに従っていればいい」

 再び孫娘の手首を掴む。普段の祖父からは想像もできない闇を背負った姿に、防衛本能が働いた彼女は抵抗を試みる。

「い、いやです。離してください、おじい様!」

 だがどんなに抵抗しても、彼女の身体は己の意思とは関係なく動き、叫び声をあげても助けなど来ないこの屋敷の地下室へと幽閉される。

「お前は大事な生け贄なんだ。黙ってわしの言う事を聞け」
「生け贄? な、何をする気ですかおじい様、あっ? い、いやあああっ!」

 ベアトリスは呪文により全身の自由を奪われ、衣服を祖父の手でむしり取られた。いくら身内とはいえ全裸をさらされ、彼女は羞恥で逃げ出したいが呪文のために身体はまったく動かない。

 ハインリヒは書物を見ながら、床に何やら大きな魔法陣を描く。多少なりとも魔術の心得があるベアトリスは、それが禁忌とされる類の文字であることに気付いた。
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