第52話

文字数 1,150文字

 物が倒される音が響き、次いで陶器が割れる。女官たちの悲鳴が上がる。ヒステリックな女の怒鳴り声が、分厚い扉から洩れ伝わってくる。

「どうか、どうか落ち着いてくださいませ、公女殿下!」 

 エリーゼ女官長の悲鳴にも近い懇願は、聞き入れられるわけもない。暴れるイザベラを取り押さえようとした衛兵は掌打を顎に叩き込まれた挙句、鳩尾を蹴られ悶絶している。

 もう一人の衛兵は男性の急所を蹴り上げられ、こちらも床に這いつくばって動けなくなっている。屈強な男たちですら手が付けられないのだ。いかに武術を身に付けているとはいえ、女の身で手負いの獣よろしく暴れるイザベラを止められる者は、いなかった。

「公女殿下。お願いですから落ち着いてください」

 器用に飛んでくる花瓶や書物をかわしながら、エリーゼはイザベラに近づいていく。他の女官たちを衛兵とともに下がらせ、彼女は暴れる公女の制御をしようと、必死に声をかける。

「お気持ちは判りますが、もうその辺でお止めください」
「何が判るだと? 貴女に私の気持ちが判ってたまるか!」

 そう叫ぶと花瓶を掴み、エリーゼに向けて中身をぶちまける。寸でのところで身をかわし、ずぶ濡れになるのは免れた。予想外の素早い身のこなしに一瞬見惚れたイザベラの隙を見逃さず、一気に間合いを詰めたエリーゼは、尚も暴れようとする公女をすっぽりと抱きすくめてしまった。エリーゼのほうが若干背が低いが、ぴったりと密着してしまえば殆どの反撃を封じ込める。

「は、離せ女官長!」
 自由になろうともがくイザベラの身体をがっちりと押さえ込み、エリーゼは毅然とした声をだす。

「イザベラ様、いい加減に現実を直視なさいませ」
「何だと?」
「貴女様の行動は幼い子供が駄々をこねているに等しき、浅ましきもの。世に聞こえた猛将ともあろう御方が、これくらいで取り乱してどうします」

 声を荒げるわけではない。むしろ淡々と告げられる声音に、イザベラは脳天を打たれたような錯覚を覚えた。同時に抱きしめられる温もりが、彼女から抵抗しようという意思を奪う。温かいエリーゼの身体から、トクントクンと彼女の鼓動が伝わってくる。同時に、彼女が細かく震えていることにも。

(ああ、この人は)

 イザベラは小さく息を吐いた。

 一介の女官長である彼女の行動は、例え今は人質の身であろうとも、いずれ皇后となるイザベラに対して決して取ってはいけないもの。本気で戦えば、イザベラのほうに軍配が挙がることを判っているから、エリーゼは震えている。

 本当は怖い、こんなことをすることは怖いんだと無言で訴えている。そう悟ったイザベラはやがて、落ち着きを取り戻していった。抵抗をやめ、呼吸を整える。完全にイザベラの殺気が削がれたことを確認してから、ゆっくりとエリーゼ女官長は離れた。
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