第53話

文字数 1,134文字

「出すぎた真似をいたしました。無礼ついでにもうひと言、よろしいでしょうか」
「なんだ」
「苦しいとき、辛いときには泣いてもよろしいのですよ」
 その台詞が耳に届いた刹那、ほんの一瞬だけイザベラの殺気が湧き上がったが、彼女はそのまま顔を背けると出て行ってくれ、と呟いた。だがエリーゼは首を横に振ると、割れたものを片付けさせますのでと告げ、イザベラの困惑する眼差しを無視し、部下たちを部屋に入れた。手早く自分が壊した物の残骸が片付けられていく様を、ぼんやりとした目で見つめていた。やがて作業が終わるとエリーゼ女官長は、明日にでも同じ物を配置させますのでお気遣いなく、と告げる。そして一礼をし出て行こうとする彼女を、イザベラは呼び止めた。
「待って」
「はい」
「その、ありがとう」
 小さく、照れ交じりに呟かれた台詞が、エリーゼの耳にはしっかりと届いた。彼女は何も言わずに再び一礼すると、今度は部屋を出て行った。何故「ありがとう」という台詞が自分の口からついて出たのか、それはイザベラ自身にも判らなかった。気がつけば、そんな言葉がでていたのだ。ぎゅっと彼女は自身を両腕で抱きしめる。先ほどエリーゼ女官長から抱きしめられた感触を、思い出すかのように。
(ああやって抱きしめられたのは、いつ以来だろう?)
 彼女は無意識のうちに、小さく息を吐いた。弟のロベルトを抱きしめることが多かった。抱き返されることは多々あっても、彼女が誰かに先に抱きしめられるという経験は、記憶の中では子供のとき以来だ。女官長であるアンジェラに抱きしめられたのは、彼女が本当の子供の頃までだった。やわらかくて温かくて、全てを大きく包み込んでくれる優しさが大好きだった。エリーゼに抱きすくめられたとき、瞬時に幼いころの記憶をよみがえらせていた。彼女の温もりは、アンジェラを思い出させた。
(苦しいとき、辛いときには泣いてもよろしいのですよ)
 脳裏によみがえった台詞に、思わず俯く。自分を抱いた両腕を解くと、彼女はふらつく足取りで隣に用意された寝室へと歩いていく。
「泣くときは一人で泣くわ。誰にも、私の涙を見られたくないから」
 ベッドにそのまま突っ伏すと、イザベラは声を殺して泣き始めた。己に降りかかった残酷な運命。父親を惨殺され国が亡ぼされた。そして最愛の弟の行方は知れず、自分を庇ってくれた傅役まで失った。たった一日で大きく狂ってしまった歯車は、もう誰にも止められない。
(いや、まだ止められる)
 イザベラは涙に濡れた瞳に、強い決意の光を宿す。
(己の運命は己の手で切り開く。これ以上泣くものか!)
 イザベラは乱暴に手の甲で涙を拭うと、唇を噛み締めた。今宵は戦勝の宴が開かれる。クレメンスとイザベラの、運命の夜が近づいていた。
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