第59話

文字数 1,830文字

 仮とはいえイザベラは皇后となったため、のんびりとしていられる時間はなかった。明朝、起床係の女官が枕元までやってきて、声をかけてくる。

「おはようございます皇后陛下。お目覚めでしょうか」

 こういった習慣は母国、プラテリーア公国でもあったので別に驚かない。王侯貴族の習慣は、どこの国も同じようなものだからだ。

「起きてはいるが、あまり良い目覚めとは言えんな。ほとんど眠っていない」

 とろとろと微睡みみもしたが、一睡もしていないに等しい。しかし戦場ではそういったことはしょっちゅうだったので、一晩くらい寝なくても問題はない。

「お召し替えの支度が整っております、どうぞ」

 女官に促され、イザベラは豪奢な寝台から抜け出した。洗顔、歯磨き、着替え、髪の手入れ、化粧などをすませると程よい時間となる。朝食は夫婦といえど別々に取り、しばらく休憩した後にクレメンスのいる私室へと向かい、そこで初めて顔をあわせることとなる。

(正直言って逃げ出したいが、そうも言えぬし)

 女官に先導されながら、ぼんやりと頭の中で呟く。

(こうなってしまったのも己の運命と諦めて現実を受け入れるしかない)

 これが昨夜、眠れない中でイザベラが出した結論だった。
 
 敵の捕虜になった女性貴族で、こうした破格の待遇を得られることは極めて稀なことである。大抵は、処刑されるという末路。死を免れたとしても娼婦として城下に放り出され、屈辱の中で生きるか自ら死を選ぶか、ふたつにひとつ。

(私も死ぬところだった。だが、皇后に迎えられるとは)

 滅多にない僥倖といえるだろう。心に根深く巣食っている、クレメンスへの怒りはなかなか消えてくれそうにない。父親はともかく、何の罪もない者たちに対する仕打ちは、絶対に許せなかった。親子とはいえ仲がよくなかった父親のことは、これも戦争の習いと半ば諦めている。聞きそびれてしまったが、弟の安否もずっと気にかかる。

(ロブ、生きているのかどうかさえも判らないなんて)

 思わず息を吐きそうになった刹那、先導する女官が立ち止まり身体をずらし、その先にある扉を指し示した。

「中で皇帝陛下がお待ちです」
「判った」

 昨夜はイザベラ自身が取り乱し、追い返す形になってしまったが、傍から見れば夫婦であることには違いないのだ。挨拶も交わさずに逃亡するのは不自然だが、やはり気まずい。

「陛下?」
「あ、いや何でもない」

 イザベラにしては歯切れの悪い返事をし、ひとつ息を吸うと開かれた扉の中に入った。ふわりと、とてもよい匂いがした。公国では嗅いだことのない、どこか神秘的な香りが室内に漂っていた。

「おはよう、眠れたか?」

 昨夜あんな仕打ちを受けたというのに、クレメンスは平然とした態度でイザベラを迎え入れた。女官たちがさりげなく退室し、室内には二人きりとなる。

「お世辞にも、快適な睡眠を得られたとは言えない」
「そうだろう、わたしとて同じだ」

 決して皮肉のつもりで言ったのではないが、気が立っているイザベラには神経を軽く逆撫でされたような感覚に陥った。が、ここで争いごとを起こしても何の得にもならないと言い聞かせ、室内に視線を泳がせる。

「何か香を焚き染めているのか? 随分と」
「あぁ、伽羅(きゃら)だ」
「伽羅?」

 初めて聞く名に、イザベラは首を傾げた。

「封印を守護する三帝室のひとつ、金烏皇国(きんうのすめらみくに)から取り寄せた、かの国特産の香木だ。邪気を祓う力があると言われており、三帝室にしか許されていない香木の香りだ」
「封印を守護する三帝室」

 そういえばイザベラはすっかり忘れていたが、ここヴァイスハイト帝国と南のテレノ帝国、そして極東の島国ヤポネシアこと金烏皇国(きんうのすめらみくに)は、神の血を引く神聖な国家。

(その一角を担う帝国の皇后に、私が相応しいのかしら? もしかしたら大変な男に見初められ、尚かつ喧嘩を売ったのでは)

「全世界でも特に高貴な家柄の后に、私などでよいのか? 昔は血族婚が当たり前だったと聞くが」

 神の血を薄めないよう、異母であれば兄弟姉妹でも結婚していたと、噂に聞いていた。

「あまり血が濃くなりすぎると、逆に子宝に恵まれなくなる。たまには新しい血を入れないと、血統自体が危うい」

 事実、年々子が生まれにくくなっており、血族はクレメンスの叔父であるザントシュトラント王フリードリヒとその娘、マグダレーナ王女のみ。慣例だとマグダレーナ王女がクレメンスの后になる筈だったが、さすがにまだ七歳の王女には酷過ぎると、先帝はこの婚姻を取り消していた。
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