第75話
文字数 1,427文字
自分でも予想外の行動に、彼女は出た。
おもむろに立ち上がるとイザベラは、何事かと見上げている彼の頭を優しく抱きしめ、自分の胸に包み込んだ。
「イザベラ?」
あまりにも突飛な行動にさすがの彼も硬直し、どう反応して良いのかわからない。温かい彼女の体温と柔らかな感触に、だが不思議と心が落ち着いていくのも感じる。
「無理をしなくてもいいじゃない。辛いことがあれば、遠慮なく泣けばいいから。私が、いるから」
「イザベラ」
彼女の声はどこまでもやわらかく、クレメンスの耳に入ってくる。呪文のような効力を発揮した彼女の台詞は、男の身体を優しく拘束する。
「泣いても、いいの」
幼子をあやすかのように、彼女の指がクレメンスの髪を梳く。トクン、トクンと規則正しい彼女の鼓動は、彼の奥底にしまわれていた記憶を呼び起こした。
(――母上)
エリーゼに育てられたクレメンスだが、生母である皇后にも幼い頃、抱かれていたことは多々ある。乳母のエリーゼとは違った香りがする母を、慕っていた子供時代。不思議と落ち着く母の腕の中だった。そのときと同じ感覚を、后となるイザベラから感じた。
(あぁ、女性とはみな)
遠い遠い記憶を脳裏によみがえらせながらクレメンスは、ぼんやりと頭の片隅で呟いた。
(みな、このような聖母になれるのだな)
慈愛に満ちた眼差しと雰囲気が彼の緊張感を解いていく。徐々に安らぎ、同時に愛しさがこみ上げてくる。
「イザベラ」
かすれた声で名を呼び片手を背中に回しかけたところで、不意に温もりが消え去った。まるで夢から醒めたような、信じられないといった表情で自身の手とクレメンスを交互に見やった後、背を向けると自分の席まで小走りで戻った。
「す、すまない」
再び男言葉に戻ったイザベラは、バツが悪そうに顔をしかめると注がれていた酒を一気に煽った。
今のは何かの間違いだ、忘れてくれ──そう言われているような気がした。
沈黙が場を支配する中、クレメンスは立ち上がると何も言わずに部屋の扉を開けた。振り向いてほしい、もう一度だけ顔を見せてほしいとイザベラは願うが、彼は相変らず背を向けたままだ。
「ありがとう」
後ろ手に扉を閉める寸前に、クレメンスはそっと礼を述べた。イザベラがハッと息を呑んだが、もう扉は閉じられている。
「あっ」
駆け寄って扉を開けようと手を伸ばし、イザベラはやがて力なく腕を下ろす。代わりに額を扉に押し当て、見送ってやれなかった後悔の念を虚しく抱きしめる。
(なぜ私はあんなことを。でも、嫌じゃなかった。陛下を受け入れることを、汚らわしいと思わなかった)
ドクン、ドクン、ドクン。
先刻とは比べ物にならぬほどの早い鼓動。息が苦しくなるほど、胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。
(この感覚は何なの? 陛下を、あの人を想うと、どうしてこんなに苦しくなるの?)
つ、と頬を伝う涙。苦しくて、今すぐ追いかけたいのに足は鉛のように重く動いてくれない。
「クレメンス」
呼んでも届かない男の名前。本人の前では呼べない名前。
「戻ってきて」
何故だか今夜は、傍にいてほしかった。話をするだけでもいい、傍にいて存在を確かめ合いたかった。だがそれを拒んだのは、間違いなく自分だ。明後日に即位を控え、明晩クレメンスは来ない。なのにこんな気まずい思いを抱えるなんて、と彼女は後悔した。
「クレメンス、私の」
そこから先は、彼女自身も何と続けようとしたのか判らない。ただ唇だけがかすかに動いただけだった。
おもむろに立ち上がるとイザベラは、何事かと見上げている彼の頭を優しく抱きしめ、自分の胸に包み込んだ。
「イザベラ?」
あまりにも突飛な行動にさすがの彼も硬直し、どう反応して良いのかわからない。温かい彼女の体温と柔らかな感触に、だが不思議と心が落ち着いていくのも感じる。
「無理をしなくてもいいじゃない。辛いことがあれば、遠慮なく泣けばいいから。私が、いるから」
「イザベラ」
彼女の声はどこまでもやわらかく、クレメンスの耳に入ってくる。呪文のような効力を発揮した彼女の台詞は、男の身体を優しく拘束する。
「泣いても、いいの」
幼子をあやすかのように、彼女の指がクレメンスの髪を梳く。トクン、トクンと規則正しい彼女の鼓動は、彼の奥底にしまわれていた記憶を呼び起こした。
(――母上)
エリーゼに育てられたクレメンスだが、生母である皇后にも幼い頃、抱かれていたことは多々ある。乳母のエリーゼとは違った香りがする母を、慕っていた子供時代。不思議と落ち着く母の腕の中だった。そのときと同じ感覚を、后となるイザベラから感じた。
(あぁ、女性とはみな)
遠い遠い記憶を脳裏によみがえらせながらクレメンスは、ぼんやりと頭の片隅で呟いた。
(みな、このような聖母になれるのだな)
慈愛に満ちた眼差しと雰囲気が彼の緊張感を解いていく。徐々に安らぎ、同時に愛しさがこみ上げてくる。
「イザベラ」
かすれた声で名を呼び片手を背中に回しかけたところで、不意に温もりが消え去った。まるで夢から醒めたような、信じられないといった表情で自身の手とクレメンスを交互に見やった後、背を向けると自分の席まで小走りで戻った。
「す、すまない」
再び男言葉に戻ったイザベラは、バツが悪そうに顔をしかめると注がれていた酒を一気に煽った。
今のは何かの間違いだ、忘れてくれ──そう言われているような気がした。
沈黙が場を支配する中、クレメンスは立ち上がると何も言わずに部屋の扉を開けた。振り向いてほしい、もう一度だけ顔を見せてほしいとイザベラは願うが、彼は相変らず背を向けたままだ。
「ありがとう」
後ろ手に扉を閉める寸前に、クレメンスはそっと礼を述べた。イザベラがハッと息を呑んだが、もう扉は閉じられている。
「あっ」
駆け寄って扉を開けようと手を伸ばし、イザベラはやがて力なく腕を下ろす。代わりに額を扉に押し当て、見送ってやれなかった後悔の念を虚しく抱きしめる。
(なぜ私はあんなことを。でも、嫌じゃなかった。陛下を受け入れることを、汚らわしいと思わなかった)
ドクン、ドクン、ドクン。
先刻とは比べ物にならぬほどの早い鼓動。息が苦しくなるほど、胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。
(この感覚は何なの? 陛下を、あの人を想うと、どうしてこんなに苦しくなるの?)
つ、と頬を伝う涙。苦しくて、今すぐ追いかけたいのに足は鉛のように重く動いてくれない。
「クレメンス」
呼んでも届かない男の名前。本人の前では呼べない名前。
「戻ってきて」
何故だか今夜は、傍にいてほしかった。話をするだけでもいい、傍にいて存在を確かめ合いたかった。だがそれを拒んだのは、間違いなく自分だ。明後日に即位を控え、明晩クレメンスは来ない。なのにこんな気まずい思いを抱えるなんて、と彼女は後悔した。
「クレメンス、私の」
そこから先は、彼女自身も何と続けようとしたのか判らない。ただ唇だけがかすかに動いただけだった。