第91話

文字数 1,167文字

「おじい様、それはまさか。やめてくださいおじい様! さらに罪を重ねるおつもりですか? それは魔族を召喚するための、魔法陣ではありませんか。封印を内側から崩壊させるおつもりですか?」

 ベアトリスが叫ぶ。しかし祖父は何も答えず、黙々と魔法陣を描く。やがて遺漏なく描き終えたことを確認すると、固まったままの孫娘の身体をまるで物のように魔法陣へと突き飛ばす。

「お、おじい様!」

 抗議の声を上げるが聞き入れてもらえるはずはなく、そのまま彼女は魔法陣の中央に寝かされた。

「あうっ!」

 身体を拘束する呪文を重ね掛けされ、彼女の全身は鉄の塊になったかのように重く、身動きしようとすれば激痛が身体を貫いた。

「お前は生け贄だ。生贄だ」

 どこから取り出したのか、いつの間にかハインリヒの手には鋭利なナイフが握られていた。

「魔族の召喚には生娘の生き血が必要だ。それも、十日間かけて注がれなければならん。ベアトリス、わしのためにその身を奉げてくれ」
「お、おじい様? やめて。やめて、おじい様やめてーっ!」

 絶叫はやがて血の臭いを含ませていく。ハインリヒの目には狂気しかない。自分を貶めたクレメンスと、野望を壊したイザベラへの恨みが彼の原動力となっていた。

 先祖が書き残したその書物は、代々『禁忌』として封印されてきたものだった。

 軍神でもある女神アシオーを守護神に戴くこの国内で、魔族を崇拝するなど論外だった。だが光が輝かしいものであればあるほど、闇もまたその存在感を示す。人の心に二面性がある限り、禁忌とされる魔族崇拝も消えないのだ。

 かつて先祖が心酔したように、ハインリヒも魔族崇拝に染まってしまった。

 崇拝、というのは言葉のあやである。彼は若い皇帝夫妻に復讐をするため、魔族の力を借りようとしただけだった。最初は。

 人間の脆弱な精神力で、最下級とはいえ魔族を簡単に制御できるものではない。修行したならばともかく、付け焼刃ではあっという間に精神を支配されてしまう。ハインリヒも精神を半ば乗っ取られた。だが怨みのほうが少し凌駕していたようで、まだ彼個人の意識もある。

 それが生贄にと選ばれた孫娘ベアトリスの悲痛な叫びを耳にすると、わずかに顔をのぞかせるのだ。

「おじい様、封印を解くような真似はおやめください。反逆の意思を明確にしてはいけません」

 人としての意識と魔族に売り渡してしまった魂が、交互にハインリヒを 苛む。ベアトリスは全身を切り刻まれながらも懇願し続けた。

 祖父の人間としての意識がある間は諌め続けようと、悲壮な決意を抱いて。

 血はとめどもなく流れ、時には意識を手放しそうになるが、そんな時に祖父は人としての意識を取り戻し治療を試みる。が、すぐに魔族に支配された精神が顔を出し、生贄の血をもっと流させろと言わんばかりに乙女の柔肌に刃を突き立てる。
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