第95話

文字数 1,389文字

 床に描かれた魔法陣は乙女の血を吸って、黒い光を放っていた。光は明滅しながら人ではなくなったハインリヒを照らし、ドロドロと溶けながらもまた上へと対流を繰り返す肉体は黒い外套で覆われ、その醜い塊を周囲に晒すことはなかった。

「おじい様」

 孫娘ベアトリスの最後の台詞は、懇願と哀切を含んだ呼びかけだった。肉体は祖父の腐りかけている身体へと取り込まれ、魂は贖罪を求めて天へと昇った。

「お願いです、どうか思い直してください。封印を解いてはいけません。陛下を裏切っては」

  文字通り血を吐くような魂の叫びは地下室に消え、哀れな娘は物言わぬ肉塊へ姿を変えてしまった。

 もう後戻りはできない。完全に魔族の一員に堕ちたハインリヒは、書物を参考に再び召喚呪文を唱え始めた。歌うように舞うように声は高低の音程をつけ、身体は一種の舞踏のように動く。それらに合わせて黒い光はさらに不気味な輝きを増していった。やがて魔法陣から異形の者たちが姿を現した。

 血肉がないのに骨だけで動く魔物──スケルトンと呼ばれる、骸骨の戦士たちが次々と吐き出されてくる。際限なく現れてくるかのように思えたが、地下室がスケルトンで一杯になると、地上へとあふれだし、一階部分を埋め尽くすと、魔法陣は役目を終えたかのように消滅した。

「予定よりも少ないが、まぁ良い。スケルトンたちよ、お前たちに命じる。狙うは皇帝クレメンスとイザベラだ。手向かう者は、老若男女問わず殺せ!」

 召喚者であるハインリヒの命令に呼応するかのようにスケルトンたちは、隊列を組み地下室を出る。骨の軋む音が屋敷内に不気味に響く。

 軟禁状態にあるハインリヒゆえ、当然ながら兵士たちが監視で屋敷に駐在している。彼らは突如現れた異形の者たちに慌てて臨戦態勢を取るが、主武器である剣はスケルトンにはあまり有効ではなかった。これが実際の戦場ならば棍棒や戦斧といった有効な武器も持っているのだが、生憎そのような物はなかった。

「宮殿へこの緊急事態を告げろ!」

 指揮官が伝令を走らせると同時に、異形の者たちの進軍を止めようと部下たちに指示を出す。が、彼らの武器では殆ど役に立たない。

「ダメです、歯が立ちません」

 攻撃がほぼ通用しない上に数でも劣る。だが撤退をすることは誉れ高き帝国軍の一員として、許されることではないと指揮官は思った。ましてや魔界から召喚されたスケルトンを相手に怖気づくなど、もっての他だとさえ思った。

「やつらを屋敷の外へ出すな! 援軍を要請しろ!」

 指揮官が声を掠れさせながら檄を飛ばすが多勢に無勢、いつしか彼の部下はひとりふたりと倒れていき、遂には彼も絶命した。

「陛下……」

 最期まで皇帝に忠実な男は、事情をまだ知らされていないであろうクレメンスを案じていた。

「進軍しろスケルトンたちよ。魔界の蓋は開けられた。この世を魔族のものとせよ。破壊しろ、命を奪え、恐怖と絶望が支配する世界を造り天界の神々を屠れ!」

  人間としての意識を一時的に奥に押し込めたハインリヒが叫ぶ。スケルトンたちは不気味なほど隊列を乱さずに進軍し、皇宮へと続く道に現れた兵士たちと対峙する。

「何としてもこれより先に進ませるな! 神聖な皇宮に一歩も踏み込ませるな!」

 連絡を受けた軍人や神官たちが続々と集い、スケルトンたちと一戦を交え始める。
 クレメンスの許には、まだ伝令が届いていなかった。
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