第98話

文字数 1,399文字

 血涙が頬を伝い、顎から滴を垂らす。次から次へと、それはとめどもなくなく溢れ流れ、麗しくも勇ましい戦女神の神像は汚されていった。何をそんなに嘆かれるのか。石像が涙を流すとは前代未聞の珍事であるため、皇帝クレメンスも大神官も立ち尽くすしかできない。

「いったい、どういう事なんだ」

 ようやくショック状態から立ち直ったらしいクレメンスは、傍らに控える大神官に問うたが彼もまた原因が判らないので首を横に振るしかできない。足元に溜まった真っ赤な水溜まりに指を浸すと、それは紛れもない血であった。

「我が守護神、アシオー女神像よ。何を嘆かれますか?」

 呟くように物言わぬ神像に問いかけたとき、まるでその疑問に答えるかのように使者が飛び込んできた。先刻ハインリヒの屋敷から皇宮へ行き、クレメンスは大神殿だと聞かされた使者は息も絶え絶えになりながら申し上げます、と声を振り絞った。

「何事だ」

 近衛師団団長のマクシミリアンが、クレメンスに代わり問う。使者は大きく息を吸い込むと、ハインリヒがスケルトンを召喚し謀反を企て皇宮に向かっていると伝えた。

「皇宮には身重のイザベラが居る。マックス、大神官!」
「はっ」
「大至急戻る。馬を」

 言いかけたところで皇宮から遣わされた別の使者が、ベルンハルトの前に来ると膝をついた。

「申し上げます。謀反人の軍勢は現在皇宮へ至る大通りにて、一個大隊と対峙。皇后陛下がプラテリーア公爵閣下以下数名を引き連れ、出陣したそうでございます」
「イザベラが?」
「皇后陛下が」

 クレメンスもマクシミリアンも絶句した。大神官に至っては思わず天を仰ぎ、御子様がと呟いた。

「皇后の性格を考えれば無理はない。よし急ぎ軍備を整え、わたしたちも合流する。マックス、大神官。そなたたちもついてまいれ」
「ははっ」

 マクシミリアンは今動ける近衛師団団を総動員して、皇宮の警護と自分について戦場に出る隊を素早く決めた。大神官も神殿に数人の女性神官を残し、男性の神官たちに武装させ皇帝と共に出陣することを命じる。

「行くぞ!」

 クレメンスの号令が響き、帝国軍とスケルトン軍団が交戦しているであろう場所へ向かった。血の臭いで噎せ返りそうになる。

 骨が砕ける音と肉が斬り裂かれる音。金属がぶつかり合う音、怒号が飛び交う阿鼻叫喚の地獄絵図とは、戦場のことを指し示すのだろう。スケルトン軍団は命令通り手向かう兵士たちを容赦なく斬り伏せ、人間たちも棍棒や戦斧といった打撃系の武器で、弱点である頭部を粉々に砕く。

 イザベラは弟やオスティ大将、エリーゼやメリッサ宮廷魔術士といった側近たちに護られながら、激を飛ばしていた。神官たちもアンデッドに有効な退魔呪文(ターン・アンデッド)を唱え、聖なる光で魔族を魔界に送り返していく。

「イザベラを殺せ、惨殺しろ!」

 黒き衣を身に纏ったハインリヒは、憎悪のこもった声で叫んだ。その命令は確実にアンデッドたちに浸透し、イザベラ目がけて進軍する。

「皇后陛下をお守りしろ」

 クヴァンツ大将が声高に命令を下す。

 彼とて皇后が懐妊しているのに戦場に来た時は
「なんという無茶なことを」
 と思ったが、かつて皇帝の指令で彼女を生け捕りにしようとしたことのある彼は、皇后の軍人としての──指揮官としての能力の高さに瞠目した。

 もはや戦場で剣を交えることはできなくなってしまったが、やはり姫将軍、戦乙女と称された皇后と戦ってみたかったと思った。
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