第60話

文字数 1,417文字

「だが、わたしがそなたを后に迎えたいと思ったのは、そんなことが理由ではない」

 開け放たれた窓から、爽やかな朝の風が吹き抜けていく。

「わたしは、そなたを謁見の間で見たときから、后に迎えたいと思った。わたしの生涯の伴侶になるべき人だと、直感的に思った」

 朝から口説かれるとは思ってもいなかったイザベラは、珍しく狼狽した。今まで自分に婚姻を申し込んでくる男は、みな自分自身ではなく、付随してくる権力と地位を目当てにしていた。だが今回は明らかにクレメンスの方が、地位も権力も比べ物にならないほど持っている。そんな男が、自分に対して熱っぽい視線を送る。初めて経験する恋の手練手管に、イザベラは飲み込まれそうになる。

(だがこの男は敵だ、自国を滅ぼした敵だ!)

 必死で言いきかせ、心に広がりかける女としての喜びを抑え込む。

「ならば何故、国を攻撃した。婚姻を申し込むなら、きちんと手順というものがあろう」

 相変らず気の強さを前面に押し出すが、昨夜のような猛々しさは鳴りを潜めている。思いがけない告白に、少々調子を狂わされている自分を自覚せざるを得ない。

「メリッサも申していたであろう。戴冠式に乗じてそなたの父は我が国に攻め入り、この国を乗っ取ろうとした。しかし、そのことがどんな災いを世界にもたらすか自覚していなかった」

 風で乱された前髪を直すイザベラを真剣な目で見据え、クレメンスは吐き出すように続ける。まるでオリンド大公の亡霊に説教するかの如く。

「我が国は神代(かみよ)の頃から重大な責務を負っている。簡単に絶やしてはいけない血統だ。封印を守護する三帝室に手を出すことは、禁忌なのだ」
「私は、父上がそんな大それたことを計画していたとは知らなかった。知っていたら、あるいは」

(処分覚悟で諌めたものを!)

 続きは口の中で呟く。言ってしまったら、まるでクレメンスの味方をしているような錯覚に陥ったからだ。この男は敵。だが考えようによっては、イザベラに親殺しの汚名を着せなかった恩人でもある。

(わ、私はいったい)

 惑乱する頭を抱えたくなるイザベラ。そんな彼女の心中を知ってか知らずか、クレメンスは大きな机に向かって歩を進め、引き出しから何やら木片のようなものを取り出す。

「これが、伽羅だ」

 ためらいは一瞬だった。イザベラはひとつ息を吐くと、それを受け取った。手であおげば、ふわりと良い香りがする。

「良い香りだな」
「今日からはそなたも、その香を焚き染めてもらいたい」
「私も?」
「正式に婚姻の儀式を挙げていないとはいえ、そなたは昨日から事実上、皇后という立場になっている。その香をまとう資格はある」

 そう言うとクレメンスは、微笑んだ。昨日の臣下たちを前に見せていた、あの威圧感はまるでなく、普通の青年に見えた。

(この人は、こんなにも優しく笑う人なのか)

 トクン、と胸の奥が小さく痛んだ。疼痛のようなそれは徐々に、イザベラの胸を一杯にしていく。

「そなたはまだ正式な皇后ではないが、来月に行われる国葬と戴冠式には、皇后として出席せねばならぬ。この部屋を出たら儀式のことや宮廷内での作法など、覚えてもらうことは山積みだ。夜には、また語り合いたいと思う」

(語り合う? 夫婦の営みをせずに、か?)

 思わずそう聞き返そうかと思ったが、女の口から聞くのは躊躇われた為、彼女はぎこちなく頷くことで了承する。嬉しそうな笑顔を向ける名目上の夫に、何故かイザベラは甘い疼きを持て余していた。
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