第37話

文字数 1,369文字

 その気配を背後に感じた刹那、オリンド大公は左肩が焼けるような熱さに見舞われた。いや実際に鎧ごと焼かれたのだ、彼の左肩は。痛みと人間の肉が焼ける、焦げ臭い特有の臭いが彼の鼻をつく。くぐもった苦痛の声が、思わず漏れる。痛みに理性が戻り、大公は愛剣を構えると瞬時に背後を薙いだが手応えはなく、代わりに女の高笑いが彼の耳朶(じだ)を打った。

「おほほほ。利き腕を焦がされては、自慢の剣も形無しですわね大公」
「そ、そなたは」

 驚愕と恐怖に支配されつつも、大公は油断なく大剣を構える。眼前には、先ほど真っ先に首を刎ねた宮廷魔術士のメリッサが立っていた。紫を基調とした術士のローブには、血染みひとつない。場違いなほど妖艶な笑みを浮かべた女宮廷魔術士は、ゆらりと舞うかのごとく近づいてくる。彼女は幻術士(イリュージョニスト)であることを、大公は遅まきながら思い出す。先刻首を刎ねたと思った彼女は、呪文による幻だったのか。オリンド大公の背に、冷たい汗が流れる。

「メリッサ、まさか、そなたが内通者。裏切り者か?」

 言うなり大公は剣を払うが、無詠唱で己の幻影を造り上げたメリッサの身体には、毛筋ほどの傷も付けられない。

「大公、勘違いされては困りますわ。わたくしは裏切り者ではありませぬ。最初から、帝国のために働いているのですよ。そう、何代も前から」

 相変わらずとろけそうな笑みをたたえ、メリッサは近づく。オリンド大公の耳には、彼女の台詞の最後が強烈に脳裏に響いた。

『何代も前から』

 メリッサの家は古く、代々旧主であるピャヌーラ王国の宮廷魔術士を輩出してきた名門である。独立と共に先代当主と男孫は新生ピャヌーラ王国に残り、当主と妹メリッサが一緒にプラテリーア公国に付いてきた。当主とその妹が大公に仕える腹心の部下が、まさかヴァイスハイト帝国の臣下とは誰が思うだろうか。

「噂に聞いたことがある。そなたたちのような者を“草”と呼ぶことを」
「ほう。“草”の存在を知っているとは、さすがは大公」

 メリッサは優雅に笑うと、ようやく歩みを止めた。

 “草”とは何世代もかけて潜入先の国で情報を収集する、諜報員の総称である。長い年月をかけて高い地位と信頼を得て、国家機密を盗み出す。親から子へ、子から孫へ。そうやってメリッサの家は繁栄してきた。

「我が主君に仇なす愚かな男め。畏れ多くも、皇帝陛下を屈服させようとは。身の程しらずの思い上がりよ、陛下に代わって鉄槌を下す!」

 メリッサの呪文が無詠唱で放たれようとした、まさにそのとき。

「待ちなさいメリッサ。その男の首を取るのは、僕の役目だ」

 大公は声にならない声をあげる。気配に気づいていたのか、メリッサはさほど驚いた顔も見せずにその者たちを出迎えた。

 鎧自体が発光しているかのような輝きを放っている。胸に刻まれし紋章は、間違いなく帝国の国旗にも使用されている、双頭鷲の意匠。聖騎士の証である純白の全身鎧を纏える人物は、帝国にただ一人。

 その男の背後から、ほんの二日ばかり顔を会わせなかっただけなのに、別人と見紛うごとく、凛々しい顔つきになった息子が、進み出た。

「手出しは無用だメリッサ。この男は、僕が()る」

 愛用のバスタードソードを手に、ロベルトが皇帝の前に立つ。その目は真剣で、冗談を言っているとは誰も思えない。その気迫は当然オリンド大公にも、伝わっていた。
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