第61話

文字数 1,232文字

 クレメンスの私室を出ると、女官長のエリーゼが待っていた。彼女は五十代半ばくらいだろうか。もう老齢に差し掛かっているがとても若々しく、動きもその辺の女官よりもキビキビしている。

「おはようございます、公女殿下」

 エリーゼに、昨夜のような怯えは一切感じられない。イザベラは昔から尊称で呼ばれることを好まない性格だった。国や立場が変わろうと、その辺は彼女の中では不変のものだ。

「おはよう女官長。あの、私のことはイザベラと呼んでほしいんだが」
「かしこまりました。では、わたくしのこともエリーゼとお呼びくださいませ」
「判った。さっそくだがエリーゼ、皇帝からこの国の慣習や宮廷儀式に関することを学べと言われたのだが」
「お部屋をご用意いたしております。どうぞこちらへ」

 (うやうや)しく、エリーゼはあくまでも控え目に礼節を守って、イザベラを先導する。

 皇帝クレメンスの乳母であり女官長、そして緋色旗近衛騎士団団長マクシミリアンの母。クレメンスが最も信頼している女性で、
「何か判らぬこと、困ったことがあれば、迷わずエリーゼに問うがいい」
 と言わしめるほどの女傑。

 武術の腕も相当なもので、イザベラの一瞬の隙を突いたとはいえ投げ飛ばすなど、なまなかな腕ではない。割と華奢な身体ながら、内から湧き上がる気力は充実している。

(なるほど、私がこの先もこの国で生きていくならば、この人を味方につけておかねばならんな)

 誰が敵か味方か──おそらく殆どが敵だろう──判らない宮廷へ連れて来られたのだ。形式上の夫が薦めるならば間違いはないだろうと、イザベラは胸の内で呟いた。

「こちらでございます」

 すぐさま扉を開ける係が二人、音もなく大きなそれを開け放つ。イザベラたちが中に入ると、また音もなく閉じられた。

 明るい光が差し込む広い部屋だった。女官が二人控えており、大きな書き物机と書棚がある。向かい合って座ると、エリーゼは早速ですがと口火を切った。

「まずは一ヶ月後に控えている、国葬と戴冠式についてです。戴冠式から三ケ月後には婚儀が控えておりますので、それまで欠かさずに守っていただきたい事がございます」
「何だ?」
「毎日身を清めること、殺生をしないこと。そして、我が国の守護神であるアシオー女神様への礼拝を、お願いいたします」

 ひとつ息を吐いて、ことさら声を落としてエリーゼは問うた。

「畏れながらイザベラ様、男と情を通じてはおりませぬな?」
「情を?」

 聞き返そうとして、イザベラは質問の意味を悟った。プラテリーア公国で、未婚でありながら姦通したことはないかと問われたのだ。仮にも小国とはいえ一国の姫。跡取りと目されていた彼女と情を通じ、もしも露見すれば相手の男と一族郎党には、死が待っている。

「ない、それは断じてない!」

 イザベラの頬が見る間に染まっていくさまを見て、エリーゼはご無礼を、と詫びた。他の女官たちに聞こえぬよう配慮をしていたため、イザベラもこれ以上動揺を表すことなく、さりげなく扇で顔を隠す。
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