第58話
文字数 1,765文字
「もう少し、ご自分を大切になされてはいかがですか」
真っ青な顔で小刻みに震えているイザベラの手を取り、エリーゼはゆっくりとベッドに腰掛けさせる。エリーゼは足元に跪き、涙を目尻に浮かべたイザベラの頬にそっと触れた。抵抗を忘れたかのように、彼女はエリーゼの手を受け入れている。
「エリーゼ女官長、私は、私」
震えが大きくなり、イザベラは堪えきれずに嗚咽を漏らしだした。エリーゼは小さく
「ご無礼をお許しください」
と呟き立ち上がると、優しく優しくイザベラの身体を抱きしめた。
張り詰めていた神経の糸が切れたかのように、エリーゼの胸に頭を埋めて声をあげて泣き出した。
「ほ、本当は怖かった。父上はあんな姿に変り果て、民衆も、じいまでもが、みんなが犠牲になって。だが私は、こうして生き残っている。自決することも考えたけれど、実行できない。怖いんだ、死ぬのが」
両手で顔を覆い、イザベラは声を上げる。だから、后になると見せかけて閨の中でクレメンスを暗殺しようと計画したのだが、いざ彼を目の前にしたら怖くなった。まだ男を知らない彼女が、たとえ計画のためとはいえ、いっときでも身体を任せなければならない。
未知の領域に踏み込む勇気が、持てなかった。これが戦場で武器を手にしての戦いならば、彼女はなんの躊躇いもなく行動しただろう。だが己の肉体を武器にすることには、恐怖心のほうが先に来てしまった。怯えていることを察知されたくなくて、必死で虚勢を張りクレメンスを罵ったが、裏目に出てしまった。
結果、惨めな姿を晒し、泣くことしかできない無力な女に成り下がっている。自分を抱きしめてくれている敵国の女の温もりに、安らぎを覚えてしまっている。
「無理もありません、イザベラ様。たった一日で全てが変わってしまったのですから。むしろ今までよく、正気を保っておられたものだと感服しております」
幼子をあやすようにエリーゼはイザベラの背をゆっくりと撫で、震えながら泣く若い皇后候補を抱きしめる。
「貴女が、抱きしめてくれたからだ」
「え?」
「目が覚めた後で二人きりになったとき、貴女が死を覚悟しながらも抱きしめてくれた。あの時の温もりが、私の正気を保ってくれた。長い間忘れていた温もりを、思い出させてくれたから」
「イザベラ様も、もう長い間、誰かの温もりを知らずに?」
「私も? どういうことだ?」
「皇帝陛下も、そうだからです」
イザベラの涙に濡れた瞳が、まっすぐにエリーゼ女官長を見つめた。
「陛下は、御生誕されてすぐに母である亡き皇太后陛下から引き離され、わたくしがお育ていたしました。どんなに愛情を注いでお育てしても、所詮わたくしは陛下にとっては他人であり乳母にすぎません。本物の母親の愛情には敵いませぬ」
寂しそうに、呟くように言うエリーゼにイザベラは目を瞠 った。
「イザベラ様も、御母堂の愛情を長い間お受けになっておられないように、お見受けいたしますが」
実母は、自分を産んですぐに亡くなったと聞いた。アンジェラ女官長が乳母となり育ててくれたが、彼女もこの世の人でないことを悟っている。父親によって跡取りと目され、指揮官として自立できるようオスティ将軍に養育された。子供らしく、無邪気に温もりを求められていたのは、わずかな、幼い期間だけだった。
「今日明日中に、陛下を受け入れろとは申しません。ですが、これだけは判ってほしいのです」
エリーゼは大粒の涙を零し続けるイザベラの両手を包み込むと、懇願するように訴えた。
「陛下は、心から貴女さまを后にとお望みです。貴女さまが先ほど仰ったような、世継ぎが目的ではございません。共にこの国を護り続ける伴侶を、ようやく陛下は見つけられたのです。イザベラ様も今は混乱されていますから、真実が見えないでしょう。ですが、どうか、陛下の真心をご理解いただきますよう、お願い申し上げます」
エリーゼはそう言うとイザベラに横になるよう進言すると、彼女は素直に従った。
「ゆっくりお休みくださいませ。陛下を受け入れるか否かは、イザベラ様の御心のままに」
扉が閉められ、イザベラは高い天井を見つめたまま泣いていた。
(この国で生きていくしかないのだ)
例え形だけの夫婦になろうとも、自分は生きなければならない。イザベラの目から、新しい涙が零れ落ちていった。
真っ青な顔で小刻みに震えているイザベラの手を取り、エリーゼはゆっくりとベッドに腰掛けさせる。エリーゼは足元に跪き、涙を目尻に浮かべたイザベラの頬にそっと触れた。抵抗を忘れたかのように、彼女はエリーゼの手を受け入れている。
「エリーゼ女官長、私は、私」
震えが大きくなり、イザベラは堪えきれずに嗚咽を漏らしだした。エリーゼは小さく
「ご無礼をお許しください」
と呟き立ち上がると、優しく優しくイザベラの身体を抱きしめた。
張り詰めていた神経の糸が切れたかのように、エリーゼの胸に頭を埋めて声をあげて泣き出した。
「ほ、本当は怖かった。父上はあんな姿に変り果て、民衆も、じいまでもが、みんなが犠牲になって。だが私は、こうして生き残っている。自決することも考えたけれど、実行できない。怖いんだ、死ぬのが」
両手で顔を覆い、イザベラは声を上げる。だから、后になると見せかけて閨の中でクレメンスを暗殺しようと計画したのだが、いざ彼を目の前にしたら怖くなった。まだ男を知らない彼女が、たとえ計画のためとはいえ、いっときでも身体を任せなければならない。
未知の領域に踏み込む勇気が、持てなかった。これが戦場で武器を手にしての戦いならば、彼女はなんの躊躇いもなく行動しただろう。だが己の肉体を武器にすることには、恐怖心のほうが先に来てしまった。怯えていることを察知されたくなくて、必死で虚勢を張りクレメンスを罵ったが、裏目に出てしまった。
結果、惨めな姿を晒し、泣くことしかできない無力な女に成り下がっている。自分を抱きしめてくれている敵国の女の温もりに、安らぎを覚えてしまっている。
「無理もありません、イザベラ様。たった一日で全てが変わってしまったのですから。むしろ今までよく、正気を保っておられたものだと感服しております」
幼子をあやすようにエリーゼはイザベラの背をゆっくりと撫で、震えながら泣く若い皇后候補を抱きしめる。
「貴女が、抱きしめてくれたからだ」
「え?」
「目が覚めた後で二人きりになったとき、貴女が死を覚悟しながらも抱きしめてくれた。あの時の温もりが、私の正気を保ってくれた。長い間忘れていた温もりを、思い出させてくれたから」
「イザベラ様も、もう長い間、誰かの温もりを知らずに?」
「私も? どういうことだ?」
「皇帝陛下も、そうだからです」
イザベラの涙に濡れた瞳が、まっすぐにエリーゼ女官長を見つめた。
「陛下は、御生誕されてすぐに母である亡き皇太后陛下から引き離され、わたくしがお育ていたしました。どんなに愛情を注いでお育てしても、所詮わたくしは陛下にとっては他人であり乳母にすぎません。本物の母親の愛情には敵いませぬ」
寂しそうに、呟くように言うエリーゼにイザベラは目を
「イザベラ様も、御母堂の愛情を長い間お受けになっておられないように、お見受けいたしますが」
実母は、自分を産んですぐに亡くなったと聞いた。アンジェラ女官長が乳母となり育ててくれたが、彼女もこの世の人でないことを悟っている。父親によって跡取りと目され、指揮官として自立できるようオスティ将軍に養育された。子供らしく、無邪気に温もりを求められていたのは、わずかな、幼い期間だけだった。
「今日明日中に、陛下を受け入れろとは申しません。ですが、これだけは判ってほしいのです」
エリーゼは大粒の涙を零し続けるイザベラの両手を包み込むと、懇願するように訴えた。
「陛下は、心から貴女さまを后にとお望みです。貴女さまが先ほど仰ったような、世継ぎが目的ではございません。共にこの国を護り続ける伴侶を、ようやく陛下は見つけられたのです。イザベラ様も今は混乱されていますから、真実が見えないでしょう。ですが、どうか、陛下の真心をご理解いただきますよう、お願い申し上げます」
エリーゼはそう言うとイザベラに横になるよう進言すると、彼女は素直に従った。
「ゆっくりお休みくださいませ。陛下を受け入れるか否かは、イザベラ様の御心のままに」
扉が閉められ、イザベラは高い天井を見つめたまま泣いていた。
(この国で生きていくしかないのだ)
例え形だけの夫婦になろうとも、自分は生きなければならない。イザベラの目から、新しい涙が零れ落ちていった。