第5話

文字数 1,520文字

 皇帝崩御より一週間が過ぎたころ、新帝クレメンスは元宰相で現在は補佐官である、ハインリヒの報告を受け取った。

「隣国が、戦を仕掛けてくるかもしれないだと?」

 父帝の葬儀、自身の戴冠式の準備に忙殺されているクレメンスは、思わず補佐官の台詞を繰り返した。ハインリヒは不気味なほどのポーカーフェイスで、新帝に
「さようでございます」
 と告げる。

 手には数枚の詳細な報告書がある。すでに目を通してあるらしく、少し皺になっていた。受け取り、丹念に目を通した後にクレメンスは、軽く鼻で笑った。

「随分と思い上がったことを。わたしを若造と思い、御しやすいとでも思ったか?」

 自信に満ちた新帝とは対照的に、補佐官はあくまでもポーカーフェイスだった。報告書を無造作に机上に放り出すと、クレメンスは胸の前で指を組んだ。

「戴冠式に乗じて攻め込むようだが、そうはさせぬ。こちらから出るぞ、ハインリヒ」
「向こうはまだ、こちらが気づいているとは思っておりません。プラテリーア公国に潜ませてい【草】には、そのまま内偵を続けさせ、直ちに出兵しましょう」
「いや、待て」

 何かを思い出したらしいクレメンスは、片手を挙げて出て行こうとした補佐官を止めた。目顔で問う彼に向け、クレメンスは薄く(わら)う。

「プラテリーア公国には、二人の子がいたな?」
「はい。長男のロベルト公子は身体が丈夫ではない上に、父親である大公に疎まれております。大公は、長女のイザベラ公女に跡目を継がせたがっている。公国内では、そう半ば公然と、噂されていますが」
「そのことよ」

 クレメンスは壁にかかった長剣に目をやりながら、まるで独り言のように言った。

「イザベラ公女を生け捕りにして、皇后にする。面白いと思わんか?」

 瞬間、それまで無表情だった補佐官の頬が紅潮した。鉄皮面が崩れたなと、内心でニヤリと笑うと、楽しいおもちゃを見つけた子供のような顔で続ける。

「プラテリーア公国の姫将軍、戦乙女と称される公女を皇后にすれば、身体の弱い公子など、放っておいても問題はない。公女と国、両方を掌中にするぞ」
「畏れながら殿下、いえ、皇帝陛下」

 幾分青ざめた顔色のハインリヒ。もはやポーカーフェイスなど、保っていられないようだ。

「敵国の姫を、皇后になさらずともよろしいではありませんか。陛下にはもっと相応しい、国内の」
「貴族の娘を、か? 最有力候補は、そなたの孫娘。そう目論んでいるのか?」

 心中をズバリと言い当てられ、思わず絶句する補佐官に向けて、クレメンスは皮肉気に嗤った。

「ベアトリクス嬢は確か、十六歳だったな?」
「は、はい」
「恋に憧れる年頃であろう? まだ結婚など、考えさせずともよいではないか? それにな、ハインリヒ補佐官」

 がらりと口調と雰囲気が改まった。それまでどこか楽しげであったクレメンスだったが、今は鋭い殺気にも似た空気をまとっている。苛烈帝との異名を取った先帝の子息だけあって、父親譲りの迫力に思わず宰相は身を硬くする。まだ二十四歳の若造。どこかでそう侮っていたことを、瞬時に後悔した。幼き頃より戦場に出て修羅場をくぐってきたクレメンスと、もう何十年も机の前で書類を相手にしてきたハインリヒでは、器が違う。完全に呑まれてしまった老補佐官は、言葉もなく若き新皇帝を見るしかできない。

「わたしはもう皇太子ではない。自分で判断し責任を負う皇帝となったのだ。いかに卿が父上の腹心だったとはいえ、安易にわたしの人生に口を挟むな」

 声を荒げるでもない、むしろ穏やかすぎる言い方だったが、それが却って反論を許さぬ空気をはらんでいた。何か言いたげなハインリヒだが、結局ひと言も言えず沈黙している。いや、沈黙せざるを得なかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み