第72話

文字数 944文字

 判っていた。予想していたこととはいえやはり黒幕がハインリヒだったということに、クレメンスは打ちのめされたような感覚を味わっていた。幼いころから帝王学や帝室の心構えを教えてくれた宰相を、捕らえなければならない。

(例外はない。相手が誰であろうと厳しく処分せねばならん。皇帝に弓引く者は、神に弓引くに等しい)

 内心の葛藤は完璧に押さえ込み、やや無表情すぎるほどにクレメンスは命令を発した。きつく握り締めている拳がぶるぶると震えているのを、イザベラは見逃さなかった。

 矢継ぎ早に命令を下す眼前の男の背中が、何だか泣いているように見えて、引き寄せられるように近づいた。その気配を察したらしく振り返った彼は、わずかに目を細めて微笑む。大丈夫だから。そう目で語って。何か声をかけたい、そんな思いがわき上がったイザベラだが叶わず、エリーゼに呼び止められた。

「イザベラ様、ひとまずお部屋にお戻りを」
「そう、ね」

 何と声をかけようとしたのか、自分は。直前までの自分の行動は、自身でも意外だった。憎んでいたはずの男、殺しても飽き足りないと思っていた男。だが彼が殺したのは父親であるオリンド大公のみで、最愛の弟や領民には傷ひとつつけていないという。それどころか命や生活の保障もしていると知った後では、彼女の彼を見る目も変わっていった。

 ひとりの男性として意識し始めている。まだ彼女自身にその自覚はないが、確実にその想いは成長している。だから慰めの言葉でもかけようと身体が動いたのだろうが、きっかけを逃してしまった。

「しばらく部屋にいてほしい。ハインリヒ一族の処分が終わったら、反乱分子の洗い出しにかかる。戴冠式までにはすべてを終わらせる。約束する」

(ああ、この目だ。この力強い、誠実な光を湛えた目を見ると私は、何も言えなくなってしまう)

 ズキンと胸の奥が痛む。同時に何ともいえない甘酸っぱいような、こそばゆい疼きが広がり彼女をすっぽりと包み込んでしまう。魔法にかかったように彼女は素直に頷くと、エリーゼに先導されるようにして宮殿に入っていく。その後ろ姿を見送ってからクレメンスは視線を、ハインリヒがいるであろう執務室の辺りに向けた。

「尻尾を掴んだぞ、ハインリヒ」

 その声には隠しようのないほど嫌悪が満ちていた。
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