第50話

文字数 1,331文字

 遠ざかっていくイザベラの喚き声を背に、クレメンスは無言で私室に向かって歩いた。自分に向けられる容赦のない非難や罵詈雑言。何を言われても仕方ないなと、内心でため息を吐く。

 家臣たちの手前――否、ハインリヒの手前上、ああいう非情な態度に出なければならなかった。彼の拳は固く握られ、かすかに震えていることに誰も気付かない。やがて目指す部屋の前に膝をついて出迎える男の姿を認めると、彼は小さくため息混じりにその名を呼んだ。

「マクシミリアン、中に入れ」
「御意」

 黒髪の青年は立ち上がると、手にしていた水晶玉を落とさぬよう注意を払いながら、主君の為に扉を開いた。中にいた女官たち全てを部屋の外へ追い出すと、ようやくクレメンスは本来の表情をさらけだす。全身を預けるように勢いよく長椅子に座り込み、マクシミリアンは床に片膝をつく。

「ああ、全く! 謁見などという堅苦しい手順を踏まずに、最初からこの部屋に連れてきて話をしたかった。そうすればイザベラ公女を、あれほど激昂させることもなかったろうに!」

 苛々と髪をかきむしる。

「お前も見ていただろう、その水晶で。わたしは彼女に対して辛辣に振る舞わねばならなかった、勝利者として尊大に振る舞わねば、部下たちに示しがつかなかった! なにが悲しくて后に迎えようとする者に対して、あのように非情にならねばならんのだ!」

 女官たちに聞こえないよう声は落としてあるが、それでも苛立ちを隠しきれないクレメンスの声は徐々に大きくなる。

「畏れながら陛下、どこに宰相殿の耳があるやも知れませぬ。もうすこしお控えを」
「これが控えていられるか!」

 腹立ち紛れに、手近にあった花瓶を掴み床に叩きつける。砕け散った欠片が床に跪くマクシミリアンの頬を掠め、一条の赤い筋が流れた。それを認めたクレメンスは、小さくすまないと呟く。

「これしきの傷、かすり傷でございますよ」
 
 手の甲で拭うと、マクシミリアンは僅かに笑んでみせた。

「エリーゼに知れたら、どやされるな」
「大丈夫です。母は――女官長は陛下を怒鳴るなど、いたしませぬ」

 クレメンスよりも三ヶ月早く生まれたマクシミリアンは、母であるエリーゼを女官長と呼ぶ。二人は乳兄弟であり、主従の関係でもある。長じてマクシミリアンは近衛騎士団の副団長という重職に就き、母子共々クレメンスに忠誠を誓っている。

 表向きは臣下として扱いながらも、クレメンスはマクシミリアンに対して乳兄弟として、友として接していた。だが、そのような主従の枠を超えた個人的な付き合いを嫌ったハインリヒに、二人はさんざん苦言を呈されてきた。

 ハインリヒ曰く。

「将来、皇帝になられる御方に対して対等に口を利くとは無礼千万。身分をわきまえよ」
 だの、
「家臣に対し、特別扱いは調和を乱し、ひいては国を滅ぼす元。乳兄弟であろうと、過分な扱いはおやめください」
 だのと。

 皇太子時代から常に監視されてきたようなものだった。現にクレメンスに仕える女官の中にはハインリヒの息がかかった者が紛れ込んでおり、行動を逐一報告させている。無論、クレメンスもどの女官がスパイか察しは付いていたが、敢えて野放しにしておいた。女官の処分は、ハインリヒを放逐した後に。そう考えていた。
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