第25話

文字数 1,557文字

 ミーナの悲鳴とともに、ロベルトの前髪が数本、はらはらと床に落ちた。その気配に思わず目を開け、信じられないといった表情で公子は立ちすくんでいた。フィオリーノもミーナも大きく目を(みは)り、石像のように動けない。

「ロベルト公子。(けい)は、殺す価値すらない」

 ぞっとするほどの、冷たい声音だった。皇帝は剣を下ろすと、まるで汚物を見るかのように顔を歪めた。

「己が何のためにこの世に生を受けたのか考えもせず、ひたすら世を儚むだけの腰抜けなど斬っても意味がない。いたずらに剣が錆付くだけよ。それに卿が姉を親殺しにしたくないと願うのと同様に、彼女もまた卿を大罪人にしたくないと願い、離宮へ逃がしたことに気づかぬのか? まったく情けない男だ」

 数々の侮辱に、ようやくロベルトも思考が戻ってきたようだ。さっと頬を紅潮させると何かを言いたげに唇を、肩を震わせる。

「悔しいのか? 腰抜けと呼ばれることが、そんなにも屈辱か?」

 鼻先に聖剣の切っ先を突きつけられても、公子は微動だにしなかった。恐怖を覚えるよりも怒りが、屈辱が身体を支配して後退しなかった。ここで引けば負けだと己に言い聞かせながら、目に憎悪を込めて睨みつける。

「悔しければ、予を打ち負かしてみよ。かかって来い。姉の背中に隠れるしか能がない、名ばかりの公子め」

 ロベルトの中で、何かが音を立てて切れた。自身の内側から、抑えきれない衝動が急激に大きく膨らみ、突き動かす。投げ捨てたバスタードソードを素早く拾い上げ、構える。

「僕は、僕は腰抜けなんかじゃない!」

 そう叫ぶと同時に、勢いに任せて上段から振り下ろす。が、クレメンスは余裕でその一撃を受け止めると、冷笑した。

「なんだ、そのへっぴり腰は。卿は剣術すら習っていないのか?」

 軽く薙ぎ払うと、反動で公子の身体が横へ傾いだ。足を踏ん張り、無様に倒れることは避けたが、嘲笑う気配を感じ取り、屈辱で頬が燃える。

「やっとその気になったか?」

 磨けば光り輝くであろう逸材を、みすみす殺すことはない。ハインリヒ辺りがまた喚くだろうが、構わない。優秀な人物を陣営に組み込むことは、決して悪いことではない。

「構えだけは立派だな、さて腕のほうは如何かな?」
「見くびるな!」

 挑発されて冷静さを失うところなど、まだまだヒヨっ子と思いつつも、先ほどよりも鋭い攻撃に、内心で舌を巻く。同時に嬉しくもあり、手加減をせずに相手の剣の柄を狙う。剣をはね飛ばされ呆然となる公子に、もう一度剣を取れ! と命じると構える。

 素早く構えた公子は基本に忠実な動きで、クレメンスの急所めがけて突く。だが百戦錬磨の皇帝はことごとく攻撃をかわすと、紙一重の斬撃を浴びせる。

「どうした! これくらいの剣筋を見極められないようでは、そなたは戦場で生き残れんぞ!」

 まるで稽古をつけるかのように檄が飛び、ロベルトは攻撃の糸口を必死で探る。右へ左へ身体を動かし、何とか反撃を試みるも全て受け流されてしまう。

「目だけで敵を捉えるな、もっと五感全体を使って敵の動きを先読みしろ」

 フィオリーノもミーナも、ロベルトがいつしか生き生きとした表情になっていることに気づいた。こんなに激しく動いているのに、呼吸は乱れても咳き込んでいない。長年放置されていた離宮はかなり埃っぽいというのに、公子がいつしか真剣でありながらも、楽しそうな顔をしている。まるで初めて自分の力を思う存分に発揮できる機会を与えられて、喜んでいるようだ。

(ああ、そうか。間違いない、ロベルト様は)

 本当に全てから解放されたのだと、ミーナは確信した。父親から解放され自由になり、今、本当に自分一人の力で立ち向かっている。その充実感があの表情なのだと。ならば自分にできることは、どんな結末が待っていようとも二人の戦いを見守ることだ。
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