第83話

文字数 1,234文字

「義母上様は本当に、あの男には勿体ないくらいのできた女性だった。やわらかな春の日差しを思わせるような、あたたかい笑みを浮かべる人だった。まさに、淑女という表現が相応しい」

 今は亡きミルドレットは、分け隔てなく自分にも接してくれた。なのに変な意地を張って、彼女の手を振り払っていたかつての自分をイザベラは今更ながらに殴ってやりたい。彼女の今際の際になって、やっと実母のように慕っていたのだと気付いたが遅かったと、イザベラは今も襲われる後悔に唇を噛みしめた。

「ミルドレット妃は幸せだな。義理とはいえ娘に、そこまで思ってもらえるとは」

 慰めの言葉をかけながらも、クレメンスはメリッサからの情報で女官長アンジェラが実母だと知っている。望まぬ関係の、暴力の末に身ごもったとの真実をイザベラが知ったら、ますます大公(ちちおや)を憎悪するだろう。だから、その真実は彼の胸に畳み込んでおく。

「明日、正式にそなたとの婚約を国内外に発表しようと思う」

 あまり酒に強くないイザベラはグラス一杯程度の葡萄酒でほろ酔いとなっていたが、その台詞を聞いて一気に酔いが醒めた思いがした。だがクレメンスの顔は冗談を言っている風ではなく、あくまでも真剣そのものだ。

「婚約を正式に発表すれば、そなたの身分は立后されたも同義。婚儀を済ませていないだけで、事実上わたしの后とみなされる」
「そうなれば?」
「そなたの命を狙ったならば、反逆罪に値する。大元凶のハインリヒを捕らえたとて、奴に賛同した末端の人間はまだ潜み隠れているはず。しかし、婚約を国内外に発表すれば、もう手出しはできぬ」

 外交的にも、これは意味のある発表だ。

 先帝ゲオルグが、クレメンスの后には慣例にとらわれないとの布令(ふれ)を出してから、諸外国の王侯貴族が娘を輿入れさせようと躍起になっていた。

 無論、その姫君の婚礼行列に混じってスパイが潜り込んでくる。イザベラを后に迎えることは、そういった煩わしいスパイの存在を無視できる。何しろ公国は帝国に降り、当主はクレメンスに絶対の忠誠を誓ったのだから。

「正式な婚儀は三ケ月後だが、これでそなたの身の安全は保障される。もう、暗殺に怯えなくても大丈夫だ」
「そう。でも気は抜けないわね。私がいなくなれば側妃として、別の女性が送り込まれる。それを狙っている反乱分子がいないとも限らない」

 確かにそうだ。先帝ゲオルグの布令は、国内外の貴族たちに欲望を植え付けた。全世界で最も高貴な三家の一角を担うヴァイスハイト帝国皇帝に嫁ぐということは、それだけで家格が上がる。

 親に爵位さえあれば、娘が第二夫人である側妃になることは可能なのだから、欲深い貴族たちが躍起になるのは当然だろう。イザベラの命を絶たずとも、寵愛を奪えばよい。後宮の争いは、世継ぎを生んだ者の勝ちだ。それが判るだけに、イザベラは女同士の争いがおこる未来を想像して、うんざりする。

 軍人として長く生きてきた彼女にとって、ねちねちとした陰湿な争いは反吐が出るほど嫌いなのだ。
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