第55話

文字数 1,413文字

(好奇の視線もあれば、憎しみの視線もあるな)

 イザベラは席に着き、じっと冷静に自分の状況を把握していた。出された飲み物類には一切手をつけず、自分を見る視線の種類を分析していく。いくら皇帝自らが選んだとはいえ、国中が諸手を挙げて賛成というわけではないだろう。自分の娘や親戚筋の娘を后に、と目論む貴族連中はいた筈だ。敗国の、しかも猛将と謳われたイザベラを危険視する連中は、少なからずいる筈だ。

(身近なところでは、あの補佐官ハインリヒだな)

 先刻から人一倍、憎悪の念を込めて自分を見る補佐官の姿に、イザベラは内心で辟易していた。

(誰も好き好んで后になるわけではない!)

 負けじと睨み返してやると、彼の視線に憎悪の色が増した。しばし中空で睨み合った後、ハインリヒは不意に視線を外し、年若い貴婦人と暫し歓談後にどこかへ行ってしまった。隣に座るクレメンスは終始上機嫌で、臣下からの祝賀を受けている。イザベラはある決意を秘めた目で、じっと入れ替わり立ち替わり祝いの言葉を述べる臣下たちの、名前と顔を頭に叩き込んだ。

 不本意であれ、今日からはこの国にいなければいけないのだ。誰が誰かくらい、しっかりと把握せねばならない。そういったことに集中して、これから迎える夜のことを出来るだけ頭から追い出そうとする。

 長い時間が経過していた。イザベラは取り敢えず微笑みを貼り付けて、座り続けていた。

「プラテリーア公女殿下」

 最初、自分が呼ばれたことに気づかなかった。エリーゼ女官長が控えめに傍に来ているのには気づいていたが、返事をするのに時間がかかった。

「エリーゼ女官長、どうしたのだ」
「そろそろ夜も更けてまいりました。御寝所に案内いたします、どうぞこちらへ」

(ついに来たか)

 イザベラは全身が緊張するのを覚えた。エリーゼにさりげなく手を引かれて、彼女は移動をする。長い廊下を歩いていくと、戦の勝利を祝福する臣下や民衆の声が届く。笑い声が響き、みな陽気に騒いでいる。

「こちらでございます」

 女官が数人、寝所に控えていた。イザベラナは結わえていた髪を下ろされ、中に隠し武器を仕込んでいないか入念に検められる。ドレスを脱がされ全身に香油を塗りこめられた彼女は、もうすっかりされるがままだ。だが目は己の意思をしっかりと保ち、一点を見つめている。

 真っ白な寝間着姿になったイザベラは、エリーゼをはじめとする女官たちの、おやすみなさいませの台詞に、軽く頷くことで答えた。

 一人になった途端、イザベラは急に怖くなった。縁談を拒み続けてきた彼女は、当然ながらまだ男女の営みは未経験だった。だが知識としては頭の中に入っている。これから自分の身に起こることを考えると憂鬱で仕方ないのだが、それでも彼女は挫けるものかと自分に言い聞かせている。ぐっと拳を握り締め、緊張で破裂しそうな心臓をなだめながら彼女は立つ。

 部屋の空気が動いた。寝間着姿になったクレメンスが近づいてくる。向かい合った二人は、しばし無言で見つめあう。

「イザベラ」

 やや躊躇いがちに后となる娘の名前を呼ぶ。これから一晩かけて彼女の誤解を解き、この国を一緒に護っていこうと提案するつもりだ。彼はそっとイザベラの肩に手を乗せたが、乱暴に払いのけられた。

「な?」

 突然のことに目を瞠る。イザベラは睨みつけるように、自分を見上げている。

「何をするのだ、イザベラ」
「気安く呼ぶな!」

 噛み付きそうな勢いで彼女は叫んだ。
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