第60話 無用の人間

文字数 1,117文字

「荘子」を読んでいると、心が和み、大きくなれる気になる。
「人間は、へたに才能などあってはならぬ。梅、ユズ、みかんなど、へたに美味しいから、その実を取られ、みすぼらしい姿にされてしまう。棺桶や柱、板の間に有効な木材は、まだ成長途中にあっても伐採され、その生命を失う。
 人間も、不具者であれば、兵隊にもとられないし、それなりの支給ももらえる。社会に有用な人間であれば、自分の人生を真に楽しむことはできない。心の不具者であれば、なおさらである。社会に無用とされた者こそ、自分の人生を楽しく生きれるものだ。」

 何とも、すごい発言である。人の目など気にするな。自分の目を磨け、とでもいうのだろうか。そしてこれは、ぼくには、真実に見える。
 こういった類の人間は、利己主義・自己中心と非難されがちだ。だが、この「荘子」の訳者、森三樹三郎によれば、「この荘子の言葉に、けしからん、と反応する者は、政治的人間である」という。思うに、政治的人間とは、社会に役に立つ人間こそが有益であり、万事は人間の手によって対応可能であるとする、いわば「人間至上主義」的な観念をもつタイプと見られる。

 だが、森さんの言葉を続ければ、「真理というものは、国家や社会、家族などの集団の中では埋没し易く、集団から離れた場にいる人間に、しばしば発見される。その人が、深く物事を掘り下げて見、孤独な思考を重ねることによって」といった意味のことを云っている。
 漱石が、社会で働かぬ人間であっても、考える作業を真剣に続けている者は、けっしてダメな人間ではない」というニュアンスの言葉を発しているのも、同様の理由からだと思われる。

 ぼくは、自分の無職をいいことに、これらの言葉で何とか自分を「前向きに」持って行こうとしている。都合のいい自己弁護だが、なかなか「人の目」、自意識といったものは、払拭できない。
 もう小学の頃から、自分はこんな人間であることを思い知っているのに、一般社会?への未練、そこに適応できない自分を、どうにも持て余し続けている。さっさと、自分ひとりの世界に遊び、客観をフッ切って、わが道を行けばいい、行ければいいとおもうのだが。

 先日、FMで、「わたしは大器晩成と言われていたのですが、もう70になります。一体、いつになったら晩成するんでしょう」というリスナーの声を紹介していた。DJは、「そんな、まだまだ100、120とあるじゃないですか。まだまだですよ、大器晩成」といった返答をしていて、笑ってしまった。
「何事も、やり遂げてはいけない」という荘子の言葉も思い出した。まったく、ぼくも何もやり遂げていない。「それでいいのだ」と言い切る荘子の、あの潔さを見習いたい。
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