第99話 ニーチェを読んで

文字数 1,178文字

 ニーチェには「発狂」のイメージがあって、僕には怖い存在だった。誰にでも、狂う要素があって、僕もニーチェを読んだりしたら、触発されて狂ってしまうのではないか、と思っていた。
 だがそれはあくまでもイメージで、彼は狂っていなかった。梅毒だった説もあり、遺伝の説もあり、身体的なものが原因であって、精神、心のために狂人になったわけではない。むしろそれを「狂った」と見た周りが、やむなかったにせよ、狂う要素を発揮して、そう見たのではないかと思う。人を、触発するだけのものを、ニーチェは持っていたから。

「ツァラトゥストラ」を読破して、僕は生命力を与えられた気になる。平易にいえば、「神などというものを信じるな。自己以外のものを頼るな。創造主は、キリストでなく自己である。依存し、依存されるべきは自己である。いや、事実、そうなのだ。自己がこの世の創造者なのだ。きみよ、レヴェルの低い周囲になど、迎合するな。きみは、きみ自身を高めて行けよ」

 だが主人公は、山の洞窟に入ったり、人界に下ったりしながらも、最終的には再び市井の中へ下りて行こうとする。(手塚治虫の描いたブッダが、「私の教えは深く、尊い。この俗にまみれた世の人たちに、理解されるとは思えない」と逡巡した場面と似ている)
 神は人間がつくったもので、そんなものはもともといなかった。人間といえば、個々から成り立つ、ひとりひとりの集団。狩猟時代の集団生活の因襲、「孤立しては生きてゆけない」などと思考するのはやめよ。因襲、慣習に引っ張られるのはやめよ。それも、おのれの中にあるものではないか。もともと人間はひとりなのだ。孤立であればこそ、立っていられるのだ── ニーチェは、至極あたりまえのことを言っていたと思う。

 超人思想については、理解したつもりだ。これは、個人的な内部のはたらき、と僕は解釈する。もうひとつの、「永劫回帰」。これは超人のそれと比べ、漠然としていた。さもありなん、永劫回帰は、超人が個人であるのに対し、全体的な、宇宙的なところから見たものだった。
「環」。めぐり、めぐること。個人も、自己内で巡り、巡っている。が、それはどこまでも自己内の巡り。その自己の外を見やれば、この自己の死も見える。生も見える。だが、生は永遠でない。死は、永遠である。死して、人間は永遠となる。だが、そうして、永遠に

のだ……永劫回帰、僕はそこにニーチェの強い意志を感じる。
 何も、恐れることはない。きみよ、もし恐れるなら、それを越えてゆけ。越えたなら、また新しい、懐かしい壁が立ちはだかるだろう。それも超えてゆけ。ニーチェは執拗に訴える。きみよ、きみを超えてゆけ。

 初めてニーチェ、「ツァラトゥストラ」にふれて、このようなものを僕は感得した。情熱、気力の充実。また二度三度と読み返せば、また違った感想を書くだろう。
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