第5話 死について

文字数 1,207文字

 とにかく、生きた。もう、いいではないか。
 思い残すことなど、あったところで、それがどうした。
 生きただけで、もういいではないか。
 きっと、よくがんばったと思う。
 運命の神が、「もう一度、やり直させてやろうか」と言っても、御免こうむりたい。
 人生は一度だけだから、いいのであって、そんな、二度も要らないよ。

 ということで、仏教の話。(なぜ?)
 浄土宗は、法然の死後、分裂した時期があったらしい。
 念仏を、「一回唱えればいい派」と、「何回も唱えないとダメ派」が対立したという。
 前者の言い分は、「拝み倒さねば願いをきかぬ仏ならいざ知らず、慈悲深い弥陀仏なのだから、一回の念仏で救いの手を差し伸べるはずだ」というもの。
 後者の言い分は、「それでは信仰が薄いことになるだろう。極楽浄土に行くには、臨終までにたくさん念仏を唱え、真の往生を目指すべき」。
 そして真宗の開祖・親鸞は、どちらの派にもつかなかった。悪人正機説、「死ねば誰もが極楽に行ける」を唱えた彼は、「そんなのどうでもいい派」だったろう。

 死後の世界については、もう死んでみるしかない。
 しかしネットなんかで見れば、西洋の人も、生死の境を彷徨った際、「川」を見たという話だから、「三途の川」はあるのかもしれない(?)。それとも、いまわの際に「人生は川」の想念を持つ人が、幻覚を見ただけなのかもしれない。
 確かなのは、生きている間にしか、生きることができないということ。
 人に、そんなに迷惑をかけず、なぜ生きていたのか分からないまま、ひっそりと死ねたら、もう充分のように思える。

〈 若死も老死も、病死も事故死も自然死も同じだ。いつ、どのように死のうが、

。〉

 ああしていればよかったとか、こうしていればよかったとか、後悔するには及ばない。
 仮定は、どうにでも成り立つ。肝心な問題は、どうしてそうした自分だったのか、こうした自分だったのか、なぜ自分は自分であったのか、ということ。
 そしてその理由は分からない。
 できることは、そうした・こうした自分と、死ぬまでつきあっていくということ。
 
 生きているということは、欲を持っているということ。
 死して、やっと欲もなくなる。
「死すれば誰もが極楽へ」…

 心から笑える幸福な日など、そうそうあるものではない。
 苦も楽も感じない、自分が無くなるというのは、実は素晴らしいことではないか。
 生きながら、そのような境地に行ければ最高だが、なかなか行けるものではない。

 無駄に生きようが、有益に生きようが、どちらも頭でつくる観念。
 優も劣もなく。ただ、生きること。
 それだけで、ほんとにもう、いっぱい。
 そんな気で生きていると、死ぬ際にも、それがどんな形であれ、気持ちだけは幸福になれそうだ。そもそも幸福も、気持ちから生じる。
 幸福な死を目指すこと。
 それは、ぐるっと回って、そのまま、そんな幸福な生き方に通じて来るような。
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