第106話 言語にヒトが形成される

文字数 1,331文字

 日本独特の協調性、曖昧なままに流される民族性。マスクの着用率が高いのも、周囲への同調性、「こいつ、みんなと違う」と思われたくない意識の高さから、とする説がある。
 出る杭になって、打たれたくない保守性、消極性。ちょっと出っ張ってやろうとすれば、農耕時代に村八分に遭ったDNAの記憶でも蘇るのか、ずいぶんな勇気、はっちゃけられない自縛を感じそうだ。
 日本語の構造が、この国に生きる人の思考回路、行動背景に雲のような影響を賦与している、と考えられる。中国語は西洋の合理的・論理的思考を受け入れない構造を持ち、そのような国民性であるのも、言語文法と同様の法則性をもっているから、という見方がある。

 僕は今奈良に住んでいるけれど、関西弁、大阪のそれよりキツくないといわれている。が、この関西弁に、いささかげんなりする時がある。何というか、

な感じというか、押しが強いというか、強制力があるというか…馴染めない。
 たまに関西に旅行するぶんには、「おお、関西弁だ、いいな」と感じていた。が、旅行者の気軽さもなくなって、これが日常になると、東京の何でもなかった言葉使いが懐かしい。
 小さな島国でも、地域地域でたくさんの方言がある。これが地球規模になったら、もうどれだけの「地域に根づいた言語」があるのか、途方に暮れるしかない。

 日本語には、「相手に判断をゆだねる、自分が意見を言う前に」という空気があることを感じる。サッカーで、パスばかりが巧みで、「決定は誰かにまかせる」という姿勢に似ている。
 西洋人は真っ直ぐ相手を見つめ、堂々としているように見える。論理を、その体内にしっかり生成しているように見える。
 が、この島国や中国、アジアと呼ばれる(おか)には、西洋にない、むしろ西洋が見習っても良さそうな民族的思想、形にならない思想性があったといわれる。
 論理性、合理性だけで人間が生きているわけではない、ということを、西洋の合理主義が入ってくる前は、実地で行っていたそうなのだ。
「中国思想史を想う」に書いたから、もう繰り返さないけれど、平易にいえば義理人情的な、江戸の「しゃらくせえや、べらんめえ!」的な、やはり人情、わけのわからない勢い、温和な、東洋特有の寛大さのようなものが、論理は不在であっても、確固として存在したといわれている。

 合理性、論理性が含有するのは、経済もそうで、「分かり易さ・明瞭さ」。これを手中にし、飲み込んで、自分のモノとして支柱にしたならば、それは堂々となるだろう。
 その西洋の威風堂々さ、論理的思考の明るさに、アジアはどうしたわけか「敗北感を味わった」。で、もともと東洋になかった「民主主義」だのナントカ主義だの思想が持ち込まれ、アジアはそれに追従するようになったという。
「自分はこう思う」と主張するのが、主義であり、思想であるとするなら、日本語には本来、それほどの強さがない。この土壌に、合わない雨が、空から降って湧いたようなものかもしれない。
 と、何かのせいにすれば、自分の責任でなくなる。この心理は、どこで生まれて育とうが、万人に共通の、自己保存能力のような気もする。
 それを超えて行け、とニーチェは言うのだが…。僕は、典型的な日本人野郎だ。
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