第32話 まとまりのない文章について

文字数 2,103文字

 マンガとのつきあいは長かった。少年ジャンプを毎週読んでいたのが、小3~小6で、自分でも書き、集英社に勤めていた父のコネで当時の月刊の編集長に読んでもらい、批評めいた手紙をもらった。
 とにかくぼくは学校に行っていなかったので、「学識・教養をつけることは大事です」と、やんわり「学校に行くように」といった匂いが文面からして、嬉しさよりもイヤな感じ、ああ父が仕向けたんだな、と、イヤな気持ちになったことを覚えている。

 形だけの中学生になると、漱石やらドストエフスキーにやたら心を奪われて、言葉の意味の深さ、多様な表現法、その文字の大海に飲まれる感じがした。沢山は読めず、何しろ難しい漢字が一行にいくつも出て来るので、辞書を引いてばかりいた。でも、とても面白い作業だった。

 マンガは繰り返し読んで、その世界にどっぷり浸かることができた。しかし文学は、能動的だった。自分で言葉の意味を調べ、理解して、そこからでないと文章自体の意味がわからなかったからだ。
 なぜ文学に興味をもったのか。漱石を、ぼくの兄が好きだった。その兄を、ぼくは好きだった。好きな兄が好きな漱石は、一体何だろう、という興味から始まったと思う。
 勉強なんか何もしていなかったから、「言葉を覚える」「知らない言葉を知る」ことが、まるで勉強をしているような気になったし、知れることがほんとうに楽しかった。「自己欺瞞」「発露」という言葉を知った時、自分の中に深く入り込んできた。

 学研の「国語大辞典」が広辞苑より分かり易く、今も「漢和大字典」とともにたまに使っている。
 ぼくが言葉を知りたいと、能動的になれた理由。そこに「現わされる」ものがあったからだと思う。自己欺瞞。発露。たったこれだけの言葉で、ぼく自身が、その文字に収められる感じがした。自分自身が、そこに体現されて、でも言葉は形でしかないが、その形から、さらに何かが始まっていく感じがした。
 言葉を知る→自分がそこにおさまる→そこから何かが始まる、この心路行程が、楽しかったのだと思う。

 そこには、どうしても「学校に行っていない自分」があった。それがぼくの、すべてだった。ぼくの現実を牛耳っていたすべてが、この学校に行かない自分に始まり、終わっていた。
 だが、ぼくはきっと、終わらせたくなかったのだと思う。「将来」が、未来があったからだった。それは不安の塊で、強固に凝固して、ばかでかい壁みたいに自分の中にあり続けた。その、何の希望もなかった未来への、不安や焦りから、「文字に自分がおさまる」安堵、おさめられる安心を得ていたのだと思う。

 不安に自分が網羅されたら、自分自身も不安の塊になる。不安は、先の見えない将来からもたらされていて、その未来はつかみどころもない。それ自体に自分がとらわれるわけだから、ぼく自身が漠然とした塊になっていたわけだった。
 雲みたいな不安な自己が、たった五文字や二文字の言葉におさめられること。止めどなく流れる水が、四角い枡に入って、四角くなれた、そんな「形どられる」ことが、ぼくの小さな、しかし大きな救いだったように思う。

 そんな子どもだった頃、少年チャンピオンに手塚治虫の「ブラックジャック」が連載されていた。だが、ぼくは手塚が好きでなかった。ブッ飛んだところがないように思えたし、こどもが読む、健全な、つまらないマンガに見えた。
 それが今や、「手塚治虫、最高」の自分に化している。
 小6から40を過ぎるまで、ほとんどマンガを読まなかったぼくが、何かの弾みで、たぶんヒマで、文字ばかりを追うことに疲れた時、図書館で手塚治虫コーナーに引き寄せられたのだと思う。

 今読んでいるのが、「アドルフに告ぐ」。これは大人向けのマンガで、かなり相当に内容が重い。だが、「火の鳥」とともに、手塚治虫がライフワークにしていた作品らしい。手塚が終生云いたかったのは、「差別・戦争への抵抗」のように思う。殊に、この「アドルフに告ぐ」は社会的で、歴史的で、事実的だ。

「なぜ生き、死ぬのか」のモチーフは「ブッダ」「火の鳥」にまかせる。「アドルフ」は、決定的に手塚治虫が人間社会の現実に向かおうとして認め続けたマンガに感じる。もちろん現代の政治、世情にまで通じるものだ。

 読んでいて、ああ、こういう主題はライフワークにならざるを得ないなと思った。一朝一夕に、成り立つ物語ではないのだ。
 そうしてぼくは、自分を肥大化させた。手塚は、社会に向けるメッセージを送信できるパワーの持ち主だ。ぼくには、そのようなパワーはない。でも、自分の内にのめり込む力だけならある。こどもの頃から、培ってきたつもりのところの、のめり込みだ。

 死ぬまでこれは続けよう、死んだらそれで終わる、それだけのライフワークを、そのままライフワークとして、自分へ書くことだけは続けよう。ばかになろう、狂おう、狂いまくろう、と、奇妙な決意を、手塚治虫から汲み取ってしまった。
「情熱のもろさ」、そんな言葉も、ふいに浮かぶけれど。狂気は、どうだ?
 ── モロイカラ イインダヨ。
 そんな声も聞こえる。
 ほら、まとまりのない文章になった。
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