第30話 かきかた

文字数 1,142文字

 ヘミングウェイは、「ものを書く人間ができることは、タイプライターの前に座り、血を流すことだけだ」と言った。しかし、モンテーニュは「書くことが楽しくて仕方ない」と書き続けた。
 想像するに、「老人と海」などを書く時、ヘミングウェイはどんな心で、どんなものに向かっていたんだろう── ひどく力を入れて、魂、全身全霊を込めて、タイプライターに向かっていたに違いない。
 その心は、強大なものにワシ掴まれ、自由を失い、しかし自分のできる、表現できる最大限まで自分を高め、それでもなお高め、限界と思えるものが出てくるたびに、それを越えよう越えようと繰り返していた精神の姿が浮かぶ。

 モンテーニュは、自分の力が及ぶ範囲以上のものを、自分に求めようとしなかった。その「エセー」は「試し」であった。
「有名人なら、その人のことを知ろうとして読む人があるだろう。しかし、自分のような無名の人間が、自分のことばかり書いたものを、興味をもって読む人はいないだろう」
 最初の頃は、そう考えていたようだった。まぁでも、ものは試しだから書いてみよう、という意味の「試し」であった。

「自分には知識がない。キャベツとレタスの区別もつかない。パンがどうやって作られるのかも、最近まで知らなかった。自分が書けるのは、自分のこと以外にない。自分自身のことなら書ける」
「多くの人が、自分を知らない。まわりの人間のことはとやかく言うのに、自分についてはまるで棚に置いている」
「自分についてよく考え、研究することは、人間について考え、人間を知ることを、読者に提供することになるだろう。なぜなら、私は人間だからだ」

「エセー」からぼくに残っているのは、そのようなことを書いていたモンテーニュの、柔らかでとりとめのない、空気のようなおおきさだ。
 彼は、とにかく書き続けた。
 自分の範囲内、その手の届く範囲から、越えようとしない。越えることはできなかったし、越えてはならなかったのだ。
 自分のことが大好きであること、それがヒトの性であるらしいから、モンテーニュの「自分のことだけ書く」は、その本性に沿った、ムリのない自然な書き方だったろう。

 多くの人が、自分についての観察日記を克明に始めたら、けっこう、世界は平和になるんじゃないか、とぼくは思う。書く作業自体に、客観せざるえないシビアさが含まれるし、自分をよく見つめることは、すなわち周囲にいる人間を見つめることにもなる。自分の目の中に、人間は存在する。

 書く作業は、感情をコントロールしたり、欲望を調整したりするツールにもなり得る。いつかも書いたけれど、自己セラピーの効用もある。自分がそうなるということは、それは世界のどこかにいる誰かにも、微細な影響、揺らぎが行くだろう、と思いたい。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み