第80話 「胎動」「私の不登校体験」その後のこと

文字数 1,310文字

 自己確認作業。
 だんだん、自己の流れが、近づいてきてるな、と痛く。
(自分、というのは、自意識後のこと、自己、は、自意識以前の、この世に生を受けたときからはじまった、自己という存在、というふうに考えている。キルケゴールの影響)
 たぶん、もっと前から、あったような気がするけれど。

「私の学校拒否体験」として載っけさせて頂いているけれど、これは今も複雑な思いがする。
 読んで頂けるのは、嬉しいのだけれど、ただ「嬉しさ」だけでない。どうもすみません、というか、いいのかな、というか、その思いのほうが強い感じがする。後ろ髪を引かれる、というのか…

 これは、何なんだろうと思う。
 読まれるために載っけているくせに、読まれていいのかな、と思う。
 ただ、今もきっと不登校というのはあるだろうし、ムカシムカシハ・ボクノバアイ、コンナカンジデシタ、というのは、あってもいいんじゃないか、と考えることにしている。

 まず自分の体験というものがあって、たまたまその後不登校者が増えた社会?みたいなものがあって、そこからまた人と繋がって、また「そういうものを書け」とする情況が、まわりにも自分自身にも、できあがっていた。まったく、必然としか言いようがないものがあった。

「胎動」は、まわりからの必然性はなかった。ただひとえに、書きたいから書いていた。恣意まみれで、最終的に自家中毒を起こすという、それまでのどうしようもない心の動きを想起する。
 ああ、こんな気持ちで書いていたな、という内面の動きは、書いている本人にしか分からないと思えるけれど、たぶん読者にも伝わっていたと思う。どうしたところで、心は発露する。
 また「この書き手の限界」のようなところも、読者には伝わるだろう。

 体験話、その他いろいろなことを書いてきたけれど、まず自分はこんな人間である、ということを開示して、こんな人間はその後こんなことを考え、日々をやり過ごし、書いている、という具合に開示を続けてきた。
「あなたはどのように生きて来たか。そして今、どのように生活をしているか」という問いから、対話を始めたというソクラテスを倣ったようでもあるけれど、その問いだけで終わってしまいそうである。

「胎動」がそのうち終わって、書きかけの他のものを終わらせるかどうかするうちに、キルケゴール、このデンマークの思想家の著作を自己に引きつけて解釈する形で、エッセイのようなものを書きたいとは思っている。
 自分の前にあった自己、ここの部分に、キルケゴールは強く訴えてくるからだ。抜き差しならぬものが、感じられてならない。そして、そうとうのパワーが要る。今から、戦々恐々。

「もう、こいつはこの程度のものしか書けないな」と、自分でも自分のことを判断している。では、こいつは一体、何なんだ、という足の下を、掘り下げられたらと、まだ思っている。これは覚悟が要る。
 もともと自己の内にいたような、キルケゴールと一緒に、やって行けたら、と願望のように考えているが…。
 やってみたら、何ということもない、やっぱりムリ、手に負えない、となるのかもしれない。
 ぽつんぽつんと、書き続けることになるのかな、これからも。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み