第103話 BGM考

文字数 1,559文字

 PCに向かって何か書く時、それがほんとうに書きたいこと、書かざるを得ない欲求に駆られている時、BGMは必要としない。何か思い惑って、どんな言葉もしっくり来ないような時、えいやと踏ん切り、踏み台がてらにBGMを必要とする…
 以前はモーツァルトが多かったけれど、これは最近、甘いと感じて、あまり聴かなくなった。最近はもっぱらブルース・スプリングスティーンで、それもYouTubeからの再生。「Racing in the street」という10分位の曲を筆頭に、他の曲も自動的に再生され、なるべく気に入った楽曲が並ぶ流れをそのままにしている。
 季節の影響もある。夏は、暑さに任せて、ロックを聴くことが多く、もう秋、というか寒いから、しんみりした曲を聴きたくなる。
 大好きな夏が過ぎてしまった、まだ夏にいて欲しい、そんな気持ちもあって、まだスプリングスティーンをかけている。
 
 本は、今「悲劇の誕生」(ニーチェ)を読んでいて、友達だったワーグナーに向けて書いているような、音楽をアポロとディオニソスの芸術への取り組み方になぞらえ、延々と書いているようなもので、「ツァラトゥストラ」の感動の尾を引いて読み始めたけれど、またもう一度「ツァラ…」に戻っている。もう一度、読み返したい。
 良い本、引き込まれる本を読む時は、BGMは逆に邪魔になる。軽い、表面だけの本をヒマつぶしのように読むぶんには、音楽は良いBGMで、贅沢なひとときを過ごしている気になるけれど…

 しかしスプリングスティーン。もう70を過ぎて、以前のようなエネルギッシュなライブはできなくなったろう。でも、あれだけのすごいライブをやり続け、はじけるパッションを投げつけてくれたことだけで、ぼくには十分だ。情熱。何かをやろうとする時の、あらゆる土台。もしかして、ぼくはまだ若いのかもしれない。いや、年齢は、人生にたいした影響を与えまい。与えるのは意識で、まわりの目で、自分にとっての年齢は、ただ時が過ぎているだけ。「もうトシだから」という目、意識が、どれだけ実際よりも自分を退化させるだろう、とも思う。事実と真実の違い。

 今年行われたオリンピックで、どこかの町なかで「オリンピック反対」と書いたボードを持ち、ひとりで立って無言の抗議をする、という高校生?くらいの「若者」のことがニュースになっているのを見た。
 ぼくもオリンピックには反対だったし、ボードを掲げて町なかに立つことはできた。だが、若くない自分がそうしたところで、ニュースにはならなかったろう。べつにニュースになりたいわけではない。若者と、若者でない者とで、どうしてこんなに「見る目」が違うんだろう、と思う。
 たぶん若者には未来がある、と、思っている人が多い。未来を託したい対象として、若者を見る目線がある。若者でない者としては、ちょっと腑に落ちない。仕方のないこととも思うけれど…。

 イチローが、まわりからトシだトシだと見られなければ、本人もその気になって、まわりからのパワーを自分のパワーに変えて、もっと活躍していたのではないか。とか、フォークシンガーは若い頃から同じスタイルで、歳を取っても変わらず歌い続けられるなあ、などと考えるけれど、それも仕方がない。メイファ!
 この頃よく思うのは、「人間は社会的動物である」という意味。そうだろうとは思う。けれど、それが自分にとってどういう意味を持つのか。
 年齢も、社会も、わけのわからない皇族のニュースも、よくわからないBGMで、表面をなぞるだけ、とこじつけることもできる。そしてわからないことを、いにしえの書物に求める。功利主義をもとに、生産、経済ばかりにバランスを偏らせた歴史のようなものを思う。何がそうさせてきたのか、変わらぬ(サガ)のようなものを、おもう。
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