第57話 「憂愁の哲理」

文字数 1,449文字

 今日の、トイレの壁に掛けてある日めくりカレンダー、その格言は、「明日のことは明日案じよ」。
 ……今日、案じちゃ、イケナイのかナ。そう思ったら、ちょっと笑ってしまった。
 いつ、明日のことを案じたらいいのだろう、とも思った。が、何だか面白い格言だった。
 今日のことで、いっぱいいっぱいだのに、かてて加えて明日のことを案ずれば、さらに不安になって、今日のことすら手につかなくなるだろう。
 今日は、土手の草刈りをした(おじいさんかネ)。雨の日は、伸びた雑草がジーパンを濡らすので、憂鬱のタネになっていた。憂鬱の芽をを刈った、とも言える。

 ふいに、キルケゴールにならって、「憂愁の哲理」でも書こう。
「憂鬱」だと、書くそばから憂鬱になりそうで、鬱蒼と茂った暗い森に彷徨い込んだ気になるけれど、「憂愁」だと、また語感が違う。その森は風通しが良く、木々の切れ間から陽も少し射し込んで、清涼なそよ風が肌をくすぐるような感じがする。

「不安を感じることが、人間存在の証明である」と云ったのは誰だったか。不安が=人間。気分=人間。気分=不安。これを育んでいるのが「人間そのもの」であるということ。
 不安は、どこを切っても不安で、限りがない。限りがないから、不安と言える。椎名麟三は、「自分から不安がなくなったら、私は積極的に不安を探し出すだろう」と云った。

「先のことを考えると、誰もが不安になる」のも事実らしい。先のことは白紙だから、どんな色にも染められる。結局これも、とりとめがないから不安になるという、不安の恰好な弾み台、不安の大好物のエサとなる。(自由=不安?)
 不安は、安んじざる、心的状況。根っ子を辿れば、「安んじた」状態を知っているから、不安であることが「分かる」のだ。「分かる」の語源は「分ける」である。

「あの時は、安らかだった。しかし、今は……」となる。いつまでも、安らかな状態など、続くわけがない。だから不安である状態も、いつまでも続くわけがない。なのに、不安である状態の方が、長く感じられるのはなぜだろう。
 望み。執着、希望…希望は絶望の母だといわれる。望みが深い。希望への執着が、不安に素晴らしい栄養素を与えている。不安はぶくぶく肥えて、内包している自分の手では抱えきれなくなる。

 不安・心配は、尽きることがない。お金持ちはお金が少なくなることを心配し、お金のない者はさらにお金がなくなっていくことを心配し、どんな現実の状況であっても、安定した心であることは難しい。
 安定は、やじろべえ。どちらに偏っても、あやうい。その中心点は、しかし、ひとつであるはずだ。こいつが落下してしまうこと、それがすなわち、死のようなもの。
 左右のどちらかに重さが偏っただけで、やじろべえ全体が落ちてしまいかねない。
 このやじろべえ、ほんとうに存在しているのだろうか、と考えてみる。自己意識によって、「存在している」と言える。自己意識がなくても、他者によって、「あなたはそこにいるよ」と指摘される。存在していることには、間違いないようだ。

 しかし、生と同時に、死も、やじろべえには存在している。不安の正体は、突き詰めれば、必ずそこに死の存在がある。不安の向こうには、死がある。
 自己の思い込み、観念、または誰か他者の影響、それらの力強い助太刀をもって、やじろべえは他愛もなく前後左右に揺れ動く。
 落ちてはいけない、落ちてはいけない。おお、この揺れ、最高、とでも思って楽しめたら、しめたものだ。
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