第4話 自由と責任

文字数 1,491文字

 たとえば小学校や中学校に行かなかった時、自分はとてもじゃないが「自由」でなかった。
 でも大学に行った時… 朝日新聞にぼくの投書が載ったことがある。登園拒否する我が子に、『それでいいんじゃないか、家にいたいと思うのは自然なことじゃないか』といった投書をした医師への、同意の投書だった。自分の体験も、書いた。
 それを読んだ語学クラスの1人に、「おまえはいいな、学校に行かなくて済んで」と言われてしまったのだ。
 ぼくは彼に、「みんながしていることができないのは、とても苦しかった」ことを言った。
 学校に行きたくなくても、行かなくちゃいけないから、S君は行ってたんでしょ?
 分かっているから行ったのと、分かっていても行けなかったのと、どちらも

不本意であることは、同じじゃないか── というようなことを言った。
(今、こう書いていて、まわりから見ればぼくは「行かなかった」が、自分としては「行

なかった」というのが実情だったことを痛感する。この

で、雲泥の違いがある)

 彼は、自分が我慢していたことを、ぼくが我慢せず生きてきたことに、我慢ができないような気配があった。そんな、学校に行かないということは、実にたいしたことでないのに。
 大学を辞めた後、ぼくはけっこう職を変えたことは以前も書いたが、それについての「責任」の話を書きたい。
 その仕事をイヤになった時、ぼくはその仕事を辞めた。それが「自由な生き方」と見られてしまうことも心外だ。
 イヤになっても我慢して、仕事を続ける人達から見れば、自由に見えるらしい。そしてあの「責任」という、印籠のような言葉が登場する。仕事をよく変える場合の「責任」とは、その職場にかかる迷惑の話のように、僕には思える。

 だが、ぼくが辞めたことによって、倒産した会社はない。ぼくが求人広告を見てその会社に通うようになったように、ぼくがいなくなって人員不足になったとしても、その会社はまた募集をかけただろう。つまり、「自分がいなくなったら会社が大変だ、人に迷惑がかかる」というのは幻想で、ぼくがいなくなっても代わりの人間はいくらでもいる、というのが実際の話だと思う。だから会社を辞めることについての責任は、ぼくは、ないと思っている。

「家のローンがあるから」とか、「妻子を養わなければならないから」とか、それでイヤな仕事も辞めることができない、それが責任の正体だろうか。それは自己欺瞞だ。
 ほんとうに仕事がイヤなら、辞めればいい。妻子に迷惑がかかるなら、妻子に、自分の窮状、正直な気持ちを話せばいい。それで妻が荷物をまとめ、子を連れて家を出て行くのなら、それでいいではないか。

 職を失くしたり、離婚することは、まったく恥ずかしいことではない。まったく自由なのだ。それによって自分が困るなら、何が自分を困らせているのか、その自分自身の理由に対していけばいい。その理由の中に、ほんとうの自分が隠れている。逃げた女房は、「なぜあんな人を好きになったのか」と、彼女は彼女で、自分の中へ帰っていく。

 責任
 自分自身の問題として、ほんとに自分自身の問題として、ある事柄(離婚とか離職とか、表象上のもの)が芽を吹き出した時、最後まで、最後までその芽を見続けるということ。
 人間は、自分自身のことに関して、いちばん本気になれる。本気になること、ほんとに本気になるところから始まるものに、責任というものが、ほんとうの責任というものがある。
 ほんとう、とは。
 自分にとっての、まことのもの。
「ほんとのことをやっていくこと」が、自由と責任を引き受けて生きる、ということになる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み