第14話 自分が「規定する」「規定される」こと

文字数 1,370文字

 なぜ自分のような人間ができあがったのか。
 生まれてきたことは仕方がない。それについては、考えても本当に仕方ない。
 生まれ持った性質についても、仕方がない。生まれたと同時に、この性質があったのだから。
 …そんな調子で、仕方がない、仕方がない、と、すべて、あきらめられたら楽になる。

 あきらめられないから、苦しくなる。
 とっとと、あきらめればいいのに。
「こんな自分」に、サジが投げれない。
 で、なぜこんな自分なのかと考えることになる。

 自分で自分を縛っていることを意識する。今までの自分が、現在の自分を縛っている。
 決められた運命を辿っている、という気もする。
 体験話としても書いた「不登校」についても、その後不登校児が増えず、誰もが学校に行く社会になっていたら? と想像する。「出社拒否」についても、誰もが労働する社会になったら? と想像する。
 おそらく私は、精神病院か刑務所にでも叩き込まれ、とっくに死んでいたように想う。

 大検から大学に行ったということで、ぼくは「小・中学校、行かなくても大丈夫」というモデルケースの1つになったようだった。不登校児を持つ親御さんの心配を、少しは和らげることができたかもしれない。あの時点で、ぼくの「この世での働き」は終わっていたようにも思う。

「脱学校の会」という場所で、何やら活動もした。そこで出逢った人たちは、「自分に正直につきあえる」人たちだった。
 自分というものがあって、自分で何やら考えている人たちとの関係。私は、その関係の中で、自分が生きて、生きた人と接している、と感じていた。

 その後「社会人」になって、もちろん「チャンと」していたつもりだけれど、自分の考えを持たないような上司に出逢うと、もうダメだった。恋しているわけでもないのに、その上司のことが頭から離れなって、夜も眠れない。で、辞めることになる。
 こんな自分でも、今まで収入を得てやってこれたのは、そういう上司のいなかった仕事があったからだ。
 しかしそれも、一箇所で10年、もう一箇所も10年で辞めてしまった。飽きっぽい、という見方もできるが、言い訳をするなら、どうしようもなかった。「この仕事を

続けたくない。」「

は続けられない。」「一生」を考えると、ダメだった。

 もし私が20歳前後に「元・不登校児」として活動をしていなかったら。もし不登校児が増えていなかったら。
 まったく今と違った自分になっていただろう。もっと謙虚に、「人に合わせる」ことに必死になり、自分を生かすとか、生きるとは? とか、考えもせず、ただ「目の前の現実に生きよう」と躍起になっていたような気がする。(それこそ空想だが)

 過去によって今がある。その過去の自分が、まるで「本当の自分」であったかのように、ぼくは自分を規定している。そうして規定された自分に、現在の自分が規定されていることに、今、自分が生きにくくなっている原因があるようにも思う。

 ただ学校で習うべき、「合わない人ともうまくやっていく」訓練のようなものを、自分は経てきてこなかった。その代価を今払っている、とも考えている。
 結局、自分の本質は変わらず、生きにくさを感じ、こうして何かを思い、憂えていたろう、とも思う。そうして、憂えないために、どうしたらいいだろうと考えていただろうと思う。
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