第38話 過去と現在

文字数 1,444文字

 昔々に書いたものを整理していると、あの頃の自分へ持って行かれてしまう。ああ、あんな気持ちで書いていたんだよな、と、げんなりすることになる。
「人間関係」に重きを置いていたから(それは「書く」にあたっての目的、という剣のようなもので、その刃はいずれ自分に向かうことになる)、人間ばかりを求めて、みっともなかったなぁと思う。何もそんなに、書かなくてもよかったんじゃないかと思う。

 が、仕方ない。メイファッ!だ。中国語で仕方ない…とてもイイ感じで発音するらしい。
 今までで、三度、とにかく書く、という作業に熱中した時期がある。
 一度は、サボテン通信という個人紙で、不登校関係の人たちに向けて。
 二度目は、なろう系。
 三度目が、今、ということになる。二度目と同じか。

 しかし、記録していてよかったと思う。書くことは、記録の域を越えることはない。亡くなった父、母のことを読み返してみれば、昨日のことのように思い出せる。読み返さなければ、ほとんど忘れたままだった。こまかいところを、書いていてよかった。
 思い出したから、それでナンダというわけでもない。ただ、曖昧な記憶のままであるより、実際に会話したこと、その時の家の空気、微妙な関係の雰囲気などが、じんわり思い出せる。涙ぐんでしまう時もある。自分で書いて自分で読んで、世話がない。

 つまり「胎動」のことなのだが、こんな過去のことをここにupしてばかりいると、現在が置いてけぼりをくらいそうなので、今現在のことも記録しておかねば、と、書いている。

 今、キルケゴールを読んでいること。
 このデンマークの思想家は、ぼくが15歳くらいの時に「自分に必要」と感じたもので、白水社からの全集の4まで買ってあった。「あれか、これか」だ。
 ハイデッガーを読もうとしていたが、どうもこのドイツの哲人はキルケゴールの影響を多大に受けているということで、家にあったキルケさんをパラパラめくってみた。

 そう、10代の頃は、キルケさんの言葉が難しく、キリスト教についてのことなど全く分からなかった。
 だが、今、何やらとても面白く、いや、励まされるように読めている。心情的に、というか自分の内面の芯のところ辺りに、どうしてもキルケゴールがいることを自覚できる、と書くべきか。
 読み方を知った気にもなっている。
 キルケゴールのいう「キリスト教」は、彼自身なのだと解釈して読んでいる。

〈 神は、ひとりひとりの人間がつくる概念である 〉

 人間が関係するとは、その他者と関係する自分自身と自己との関係である。
 何か不可解なことを目の当たりにして、不思議がる自分がいるが、不可解なのは、それを不思議がる自分自身なのだ…

 本を読むのは、体力が要る。情熱も要る。でも、わざわざそんなものを構える必要もなく、その本が自分に必要な時、おのずからその本を求め、必要としている。

 ソクラテスは、「他者との関係は、自己の内にあった真のものを引き出すきっかけにすぎない」と考え、他者が自己に与える影響は、それ以上にない、とした。
 どんなにふかい関係になっても、他者を、自己が生み出せることはできない。人間関係における自己の役割は、他者の中に既に備わっている自己を生み出す、助産婦さんの役割でしかない。

 何も人間どうしの関係に留まらず、この世のあらゆる関係は、そのようなものなのだと思う。
 自分に還る…そこから、出立する。
 過去に帰るような作業を、今ぼくはしているけれど、チャンと現在に帰ってこれるかな。
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