第92話 ハサミムシの母

文字数 946文字

 何かの記事でそれを見た時、心から感銘を受けた。
 ハサミムシの一生。
 こんないきものが、石の下に隠れて、健気に生きているのだと思った。かなわないと思った。
 黒い肢体で、お尻にハサミのような、「( )」状のものを備えたいきもの。
 よく、「虫でさえこんなに子を愛するのに、人間の母親は…」という比較があるけれど、ぼくは単純に、その本能に感動した。
 きっと、何もハサミムシに限った話でもなかろう。「人間は」とか言ったところで、千差万別だ。
 ただ

、そのけなげさに、やられているだけだと思う。このいきものが熊のように大きかったら、そんな感動もしなかったろう。

 書いてしまえば、何ということもない話だ。要するに、ハサミムシは、とことん子を守ろうとすること。隠れている石をどかされ、身の危険を感じると、彼女は人間に対しても威嚇をする。全く、勝てる相手でない。それでも、彼女は敵を威嚇する。彼女の産んだ、生命を守るために。
 そのハサミは、自分のために使われるのではない。子を守るために使われる。
 子が成長すると、彼女は「私を食べなさい」と、子に、その身を捧げる。子は、むしゃむしゃと母を食べる…

 彼女は、「私は、どうして自分がこうするのか分かりません。ただ、こうするようになっているので、こうしています」と言うだろう。
 ぼくはそれを徳とおもう。かけがえのない、だいじな、だいじな、徳だとおもう。自己に備わったはたらきを、何を憂うでもなく、何を尊ぶわけでもなく、ただそのままにはたらかせていることを。
 一匹の、単体としては、弱い生命かもしれない。しかし、その生命を絶やすことなく、繋げていくことが、まことの生命の、力とおもう。

 人間の場合、単に生命だけを繋ぐだけでは、おさまらない性能をもっている。思想、財産、見栄、優劣、家系…引く手あまたなほどに、考えることに事欠かない。
 ぼくが、ハサミムシの彼女に感動したのは、ぼくと、全く正反対の生き様のように感じるからだ。ぼくなど、取るに足らぬ存在だと思った。そう、感じ、思うことが、人間であるぼくの、はたらきなんだとも思った。
 そしてこのはたらきを、一体どのように、現実に、人間世界の生命の如きものに、はたらかせることができるのか。その判断がつかないのだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み