第29話 エッセイのこわさ
文字数 965文字
「エッセイ」という分野があって、自分は小説がほとんど書けないので、エッセイばかり書いてきたと言える。
日常のこと、自分はこれについて、こんなふうに感じました── それだけのことだ。
この「日常を書くこと」が、とても怖いと感じる。
自分が、文になるということ。文は、「まとめなければならない」。主義主張、そんな大それたものを持っていないとしても、文にする以上、ほとんど強迫観念のように「何か伝えなくては」という気持ちになってしまう。
それがほんとうに自分の云いたいことなのか。ふだんは漫然と、ぼんやり生きてるはずなのに、いざ書く段になると、しっかりした文を書かなくちゃ、と思う。
何か言うことが「書く」ことなのだから、仕方ないとも思う。
だったら書くなよ、とも思う。
もともと自分の中にある、くぐもっているものを、書くことで開放しようとしているのかもしれない、とも思う。
ぼくの感じるエッセイの怖さは、「自分が文章に持って行かれる」ことだ。
たとえば「不正は許せない」と書く。すると、日常生活上でも、その思いが強くなってしまうのだ。特に仕事場で、あまりに「正しくない」人がいると、受け容れようとする前に、過剰にその人を嫌ってしまう。書いた言葉に、自分が縛られてしまう。上司に対しても、「正そう」という気持ちになってしまう。
書いてもいなくても、そういう自分なのに、さらに書くことで拍車が掛かってしまう。
こんな自縄自縛が、怖さの正体だ。小説や「作り物」なら、こんなことにはならない。
だから自分が自由に書けるのは、一見自由そうな「エッセイ」ではなく、第三者を主人公にした物語仕立ての読み物、と思う。
最近知ったのは、「モラリスト文学」というような存在。
ウィキペディア先生によれば、「モラリスト(仏: moraliste)とは、現実の人間を洞察し、人間の生き方を探求して、それを断章形式や箴言のような独特の非連続的な文章で綴り続けた人々のこと」とある。
これが、自分の目指す形に、近いと思った。
自分のことは、具体的な例として書く。
でも、ほんとうに云いたい、読み手に伝えたいことは、「人間とは?」を考えること。
ある行為、ある考えに至るまでの、心の道程のようなこと。
人間どうしが「理解」し合える、ひとつのきっかけになるように…
日常のこと、自分はこれについて、こんなふうに感じました── それだけのことだ。
この「日常を書くこと」が、とても怖いと感じる。
自分が、文になるということ。文は、「まとめなければならない」。主義主張、そんな大それたものを持っていないとしても、文にする以上、ほとんど強迫観念のように「何か伝えなくては」という気持ちになってしまう。
それがほんとうに自分の云いたいことなのか。ふだんは漫然と、ぼんやり生きてるはずなのに、いざ書く段になると、しっかりした文を書かなくちゃ、と思う。
何か言うことが「書く」ことなのだから、仕方ないとも思う。
だったら書くなよ、とも思う。
もともと自分の中にある、くぐもっているものを、書くことで開放しようとしているのかもしれない、とも思う。
ぼくの感じるエッセイの怖さは、「自分が文章に持って行かれる」ことだ。
たとえば「不正は許せない」と書く。すると、日常生活上でも、その思いが強くなってしまうのだ。特に仕事場で、あまりに「正しくない」人がいると、受け容れようとする前に、過剰にその人を嫌ってしまう。書いた言葉に、自分が縛られてしまう。上司に対しても、「正そう」という気持ちになってしまう。
書いてもいなくても、そういう自分なのに、さらに書くことで拍車が掛かってしまう。
こんな自縄自縛が、怖さの正体だ。小説や「作り物」なら、こんなことにはならない。
だから自分が自由に書けるのは、一見自由そうな「エッセイ」ではなく、第三者を主人公にした物語仕立ての読み物、と思う。
最近知ったのは、「モラリスト文学」というような存在。
ウィキペディア先生によれば、「モラリスト(仏: moraliste)とは、現実の人間を洞察し、人間の生き方を探求して、それを断章形式や箴言のような独特の非連続的な文章で綴り続けた人々のこと」とある。
これが、自分の目指す形に、近いと思った。
自分のことは、具体的な例として書く。
でも、ほんとうに云いたい、読み手に伝えたいことは、「人間とは?」を考えること。
ある行為、ある考えに至るまでの、心の道程のようなこと。
人間どうしが「理解」し合える、ひとつのきっかけになるように…