第91話 奈良の鹿

文字数 1,127文字

 先日の夕方、玄関の方からガサガサ音がするなぁ、と思って見に行くと、鹿だった。
 庭の手前の石段にいて、じっとこっちを見ていた。こっちもじっと見ていると、鹿が「こんばんは」という感じでお辞儀をした。二、三回、辞儀をしたので、こちらも二、三回、笑って辞儀をし返した。それから鹿は急にまじめな顔になって、土手沿いにさっさと行ってしまった。
 観光客が減ったので、鹿せんべいをもらう機会も減っただろう。以前より、住宅地で鹿を見かけることが多くなった。人間と鹿が、これほど共存している町は、世界的にも珍しいらしい。

 家に来たのは、可愛らしい雌鹿だった。だが、やはり可愛いのはバンビである。でこっぱちで、小さくて、お母さん鹿にくっつくようにして歩く。おっぱいを飲む時など、惨酷なほど、ドスンドスンと腹を突っついて飲んでいる。実際、すごい音が聞こえる。お母さんも、痛かろう。でも、きっとそうした方が、おっぱいの出が良くなることを知っている。
 雄鹿は、今発情期である。キャアア~ッ、と、けたたましい大声をあげて、一頭、私の家のそばを闊歩していたりする。知らない人は、人間の悲鳴のように聞こえるだろう。
 以前、山のふもとにある旅館でバイトをしていた時、パートの婦人が怖い怖いと言っていた。皿洗いの仕事だったので、客の晩餐が終わって帰る頃は夜である。夜道に、どこからか、人間が襲われているような、狂ったような悲鳴が聞こえてくるのは、恐怖だったろう。オスの鹿ですよ、と言っても、えーっ、鹿があんな声出す?と、信じられない様子だった。

 しかし鹿は、人間からせんべいをもらえなくなっても、しっかり生きている。「ひもじくなったろう」などと同情するのは人間だけで、鹿たちは「べつに、なきゃないで、あるものでやって行きますよ」と言わんばかりに見える。緑はたくさんあるし、せんべいだけが鹿の食べ物ではないのだ。車道に鹿がいて、交通渋滞する風景は前からあったし、今私が住んでいる家の庭にも、以前は鹿の親子が住んでいた。商店街を歩く鹿もいた。さっき、住宅地に鹿が多くなったと書いたが、これもコロナ下にいる人間の私の、色眼鏡で見ているせいかもしれない。

 まだ外国人観光客が多かった頃、ひとりの女性が、鹿につきまとわれて難儀していた。その鹿に、何となく私は、なだめてみた。頭に手をそっとおいて、ちょっと微笑んで、鹿の目をじっと見つめた。すると鹿は落ち着いて、女性から離れていった。「ナ~イス!」と、彼女が私を見て笑った。
 何か心が通じ合ったのか、単なる偶然だったと思うが、おもしろかった。
 動物や虫から、学ぶことは多い。ハサミムシのことを書きたかったのだが、なんだか長くなってしまったので、次項に。
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