第82話 何のために書くのか
文字数 844文字
たまに、もうダメかなと思うときがある。投稿小説サイトに投稿するということ。
これは、何か書いている時に定期的に訪れる自問のとき。
そのまま書けば、パソコンも、スマホも、軽いな、ということ。
この軽いモノを媒介にすれば、読まれるものも、軽いのが相応しいんだろうな、と。
ぼくの書くものが重いものだとしたら、投稿サイトにはふさわしくないだろうな、と思う。
もちろん文学賞なんかにも相応しくないと思う。ぼくは作品をつくっていると思えないから。時代の流れのようなものに、乗るようなものは書けない。
そんなとき、ニーチェの「ツァラトゥストラ」とキルケゴールに励まされる。
彼らは、文学と哲学の合い間にいて、彼ら自身が1つの作品になっているような存在だ。
小説でもなく、エッセイでもなく、彼らの全存在が、そのまま書物になって、とてもそばにいて、励ましてくれる。
ふたりとも、よく生きた。よく書いた。
ぼくにとって本は、娯楽ではない。生活に役立つグッズではない。一緒に道を行く、一緒に生きる伴侶のようなものだ。そういうものを、自分も書きたいと思う。自信なんてない。そういうものを、投稿サイトに人が求めているのかも、甚だ疑問に思う。
彼らが教えてくれるのは、「自分の内側を掘り下げよ」ということ。クサい言葉でいえば「おのれと対決しろ」ということ。そしてぼくは、まったくクサいとは思わない。
彼らの存在、書いたものが、自分には一番、自己…自意識する以前の自己、本質のような自己の存在に、最も近く感じられる。
もちろんソクラテスの存在も大きい。「自分をまず、なんとかせい。それをさしおいて、まわりのことなど気にするな。」
レコードもCDになり、いまや音楽は「ダウンロード」。
物、としての実在感が、ほとほと感じられなくなった。
YouTubeもNewsも、ネットという掌の上で、存在が、目の前をただ通り過ぎて行くだけな感覚がある。
せめて、自分について書くことくらい、実体のある、ものにしたいと思うのだが。
これは、何か書いている時に定期的に訪れる自問のとき。
そのまま書けば、パソコンも、スマホも、軽いな、ということ。
この軽いモノを媒介にすれば、読まれるものも、軽いのが相応しいんだろうな、と。
ぼくの書くものが重いものだとしたら、投稿サイトにはふさわしくないだろうな、と思う。
もちろん文学賞なんかにも相応しくないと思う。ぼくは作品をつくっていると思えないから。時代の流れのようなものに、乗るようなものは書けない。
そんなとき、ニーチェの「ツァラトゥストラ」とキルケゴールに励まされる。
彼らは、文学と哲学の合い間にいて、彼ら自身が1つの作品になっているような存在だ。
小説でもなく、エッセイでもなく、彼らの全存在が、そのまま書物になって、とてもそばにいて、励ましてくれる。
ふたりとも、よく生きた。よく書いた。
ぼくにとって本は、娯楽ではない。生活に役立つグッズではない。一緒に道を行く、一緒に生きる伴侶のようなものだ。そういうものを、自分も書きたいと思う。自信なんてない。そういうものを、投稿サイトに人が求めているのかも、甚だ疑問に思う。
彼らが教えてくれるのは、「自分の内側を掘り下げよ」ということ。クサい言葉でいえば「おのれと対決しろ」ということ。そしてぼくは、まったくクサいとは思わない。
彼らの存在、書いたものが、自分には一番、自己…自意識する以前の自己、本質のような自己の存在に、最も近く感じられる。
もちろんソクラテスの存在も大きい。「自分をまず、なんとかせい。それをさしおいて、まわりのことなど気にするな。」
レコードもCDになり、いまや音楽は「ダウンロード」。
物、としての実在感が、ほとほと感じられなくなった。
YouTubeもNewsも、ネットという掌の上で、存在が、目の前をただ通り過ぎて行くだけな感覚がある。
せめて、自分について書くことくらい、実体のある、ものにしたいと思うのだが。