第102話 「同情は相手に失礼ですから」

文字数 1,495文字

 あれこれ書いているけれど、過去の話が多い。未来より過去が多くなり、現在はか細く、「書く」行為をする者として当然の帰結か、とも思う。この「同情は…」を言われたのは、20歳位、いやもっと前だったかもしれない。
 その人はぼくの尊敬する人で、ふだんは無口だが口を開けば冗談を言い、周囲を笑わせる、ぼくからしたら「愛のある」「深い人」。その人がポツリとそう言ったので、ぼくはそうか、同情は相手に失礼か、と、しみじみ感じ入った。当時もよく考えたが、今もなお反芻、吟味すれば、「同情は相手への尊敬を失すること」「同情は上から下へのベクトルをもつ」「相手を自分より下位にみる」といった、要するに相手を見さげ、自分がマウントをとっている、そんな立ち位置の匂いがする。これは人に対する基本姿勢として、深い人はこだわらずにはいられないところだったかと思う。

 だが、この言葉、なかなか人に理解されない。心からの同意をするに、抵抗のある言葉らしい。特に「普通」を意識し、そこに生きている人には…。
 先日、ニーチェを読んで、そこにも、同情について、同じような言葉があった。いや、その主人公は「同情しないこと」を、自分の修行のように捉え、「同情を超えていくこと」を修行の最終項目とした。
 もし善悪があるとすれば、同情は善の部類に入る。だが、同情の善意、善意の同情、そんな善意は、自足のためにすぎない。そんな同情は、相手を尊敬していない。相手への尊厳をまったく考えていない。

 はたして、20歳の頃のぼくに、同情の悪を説いてくれた人が、どのような真意でそう言ったのか分からない。ぼくは、よく同情をする人間だとみられたのかもしれない。「それは人間どうしの関係として、基本的に善くないことですよ、相手にも、自分にも」と言いたかったのかもしれない。
 また、「同情して、あれこれ悩んでも、それは自分のために悩むことになります。人間のために、悩むようになって下さい。そういう、大きな人間になって下さい」という意味だったかもしれない。
 ニーチェに答を求めれば、「同情する自分を超えていくこと。そこから新しい、しかしまっとうな、ほんとうの人間どうしの関係が生まれる」ということになる。

 あれこれ書こうとすれば、あれこれ考えることになる。「善の怪物」という言葉もある。善の怪物は、押しつけがましい人間が多い。「これが善だ」、善を鎧のように着衣している人間は、実は中身が空っぽのように見える。内発性、自主性、思慮のない人間は、薄っぺらすぎる。
 ぼくについていえば、善行をしたい思いはある。ただ、これは善ではなく、自分が自分であるためにこうしている、と、「善」を意識する自分を削除しようとしながら、よかれと思ってしようとしている。何のためのよかれか。自分のためによかれと思って。
 だから電車で席を譲ったり、道で困っている人をたすけたりする時、ぼくの場合、「こんな自分勝手でごめんなさい」というような恥ずかしさも感じる。
 何かの本で読んだ「善行をする時は、恥ずかしさを感じなければならない」という言葉も、少しバックボーンになっている。
 人間として当然のこと。自分の身体がそう動いてしまうので。そんな理由も自分にあてがったりもしてきたが…
 同情が、相手にどうであろうと、きっと何か、こまっている人を見かけたら、そういうことをしてしまう。ただそれを、善悪の基準で計りたくない、こういう自分だからこうしている、手伝わさせて頂きたい、という感じでやっている。「よいことをした」というような意識は、はたらく。けれど、それを超えていきたい、とは思っている。
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