第87話 本を読む理由

文字数 1,081文字

 自分自身の中の、知らない自分に気づくこと。あるいは、忘れていたことを想起すること。または、はぐらかしてきたことを、見つめ直すこと。
 僕が本に求めていたものは、それだった。

「荘子」には、死と生は同じであること、僕が長年言いたかったことを、やっぱりそうだったんだ、と確認させてもらった。2000年以上前から伝わる素晴らしい書物なのに、「生の美化」ばかりする風潮が今も強く、まるで何も変わっていないのは、何なんだろうと思う。生命に対する価値観。価値など付けられないのに、格差だの差別だの、不要な意識を捨てきれない。それが当然だと思っている人が多い。もっと読まれてほしいと、切に願う。

 モンテーニュからは、500年前の人なのに、今もすぐそばに生きているような、「エッセイ」の素晴らしさを教わった。何より、書く楽しさ、モンテーニュ自身、ほんとうに楽しそうに書いているのが伝わってくる。モノを書くのは、つらい作業であってはならない。楽しく書くのが一番。モンちゃんには、近所の酒屋で店番をしている主人のイメージがある。行けば、店の奥に椅子があって、いろんな話を聞かせてくれる。

 椎名麟三からは、「耐えること」。大江健三郎からは、文章に向かう際の、あらゆる言葉の駆使、文体・体裁などよりも、大切なのは表現すること、表現したい欲求、その求めこそ力なのだと教わった。

 今は、キルケゴールの「哲学的断片」を読み終えて「不安の概念」、ニーチェは「ツァラトゥストラ」を読んでいる。(この二人、出逢っていたら、親友になったのではないかと思う)
 いずれも中央公論社の「世界の名著」で、文中の解説のいちいちが分かり易い。この解説がなかったら、ニーチェは分からなかった。キルケゴールは解説があっても難しい。ふたりとも、すごい情熱の持ち主だ。

 以上、挙げた著者たちに通ずるのは、自分の中にくすぶり続けている炎、それをさらに点火して、自己の内へどんどん行きながら、言葉へとぐるり転回させているところ。
 そこには、やはり「ウケ狙い」などという目的は皆無に等しかった。言わざるを得ぬことを、言い続けたのだ。

 彼らは、およそベストセラーとか、売り上げNo. 1になる存在でなく、地道に地道に、読まれるべき人、ほんとうに必要だから読むという人に、読まれていくと思う。そういうふうに読まれる書物が、ほんとうなのではないか。
 つくづく、世界の名著はいいシリーズだった。生きるための、本。時代が変わろうが、モノがどんなに豊かになろうが貧しくなろうが、精神、心と呼ばれるものが、生きて行く根源であることを思い知る。
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