第55話 電話

文字数 1,314文字

 銭湯で知り合った、90歳位の、お元気な方から電話をもらう。明日の8時49分から5分間、北西の空に、日本人の乗っている宇宙船?が、夜空に見えるという。地球を何分間で一周するとか、熱っぽく語られた。もう3回見てるけど、感動するぞ、という。ほんとに宇宙が好きな方で、いつも朗らかで、品のある人だ。
「今、公園じゃなくて、○○グラウンドで紙ヒコーキ飛ばしてるから。明日でも、よかったら来いや」
 一日、1万歩あるく人である。5、6人で、手製の紙ヒコーキを飛ばし、丈夫な紙で作られ、棒に輪ゴムを引っ掛けて飛ばす。上昇気流に乗って、紙ヒコーキはなかなか落ちて来ず、空をゆっくり飛ぶ。そして落ちた所へ、てくてく歩いて行き、また飛ばし、また落ち、また歩く、を繰り返す。

 すごいと思う。あんなふうに、ぼくは歳を取れまい。どうしたら、あんな人間になれるだろう。生まれ持ってのものなのか、それとも…。
 上昇気流。自分とは、真逆だ。今、自分は下降気流の真っただ中である。とてもじゃないが、行けない。曖昧に返事をして、礼を言って電話を切る。
「阪神、強いですね」「うん、強いよ」「阪神のニュース見るたびに、○さんのこと、思い出してるんですよ」と笑ったが、あれは余計だったかなと後悔している。このお元気な○さんは、タイガースのファンなのだ。ぼくはDeNAが好きだけど、今年はてんでパッとしない。

 電話を切れば、背中に汗をかいていた。どうして、緊張してしまうんだろう。こんなんじゃ、とても、やって行けないと思う。正常な人間関係を、ぼくは築けない。きっと、ひとりでおかしくなっている。何が間違っていたんだろう、いつから自分は、こんなになってしまったんだろう。などと、きっと半分本気で、考える。
 今日は、チャーハンとキャベツのサラダをつくった。家人がパートから帰ってくると、ぼくは逃げるように家を出た。何があったというわけでもない。何か、悲しくて仕方ない。気持ちが、ざわざわして、しょうがない。

 きっと、そういう医者へ行けば、いろんな病名がつけられるだろうな。強迫観念。適応障害、鬱だの躁だの、何やかと、盛りだくさん。「宝庫ですね」とでも言われたら、きっと嬉しくなる。
 外を歩けば、人間がいる。駅の階段の曲がり角で、若い女性とぶつかりそうになった。ぼくはよけたが、先方はよけもせず、堂々としたものだった。あんなふうになりたいなあ。いつも、自分ばかり、よけている。
 昨日は、横断歩道に車が止まっていた。信号が青になったので、その車をよけて歩き出した時、急にバックしてきて、ぶつかりそうになった。

 近所の犬が吠えている。もう0時近いのに、飼い主はどうして叱らないんだろう。昨日、道端で、しゃがんで猫を撫でていた女の子は可愛かった。猫も、ノラなのに、女の子のされるがままになって、長々とのびていた。
 家の前の川では、ホタルが飛んでいる。桜の木の枝が、川に向かって、下へ下へと伸びている。昨夜、何か音がするなぁと思って見に行ったら、その枝に茂る葉っぱを、鹿が食べていた。
 ホタルを見ると、涙ぐんでしょうがない。淡い、青い光で、スーッと、流れ星みたいに川に向かって落ちていく。
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