第104話 ニーチェが憂えた未来の文学

文字数 1,090文字

「ツァラトゥストラ」の中に、「読むことと書くこと」という一文がある。曰く、
「いっさいの書かれたもののうち、私はただ、血をもって書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば君は知るだろう、血が精神であることを。
 ひとの血を理解するのは、たやすくできることでない。私は読書する怠け者を憎む」

 この最後の「読書する怠け者を憎む」は、解説によれば「形は読書しているが、精神に何の能動性もない者」とある。受動的に本を読む、ということだろう。
 続けて曰く、「読者とはどんなものかを知っている者は、読者のためには、もはや何事もしないだろう。もう一世紀、こういう読者の世界が続けば── 精神そのものが悪臭を放つようになるだろう」
 解説によれば、この意味は「書くということが、大衆にマッチすることだけを狙うようになるから」だという。
 さらに続いて言うには、「このように万人が読むことを覚えるということは、長期にわたっては、書くということだけでなく、考えることをも堕落させる。
 かつて精神は神だった。やがてそれは人間になった。いまやそれが賤民になった。
 血と寸鉄の言で書く者は、読まれることを欲しない。そらんじられることを欲する」

 ニーチェ先生、手厳しい。が、真理を突いていると思う。ことに、精神の能動性、という言葉には、やられた。
 確かに、僕の浅い読書経験からすれば、精神が能動的に働かない読書の仕方は、何も残らなかった。受け身で、「読み易く」、ああそうですか、という読み方。こちらの器の範疇内で、さっぱり読んで、ああ読んだ、と満足に浸るだけ。そういう文学作品もけっこう読んできた。
 読んでいて、苦しくなる本もあった。しかしそれは、苦しさを与えられて、能動を呼び覚ます発芽にもなった。それだけ、内へ入ってくるものだった。

 悲しみ、つらさ。よりよい人生を送るために、欠かせぬものだ。いや、あってしまうものだ。そんなの無くしたいよ、と思っても、無くなるものではない。突き詰めれば、その正体は、「人生はわからない」ということだ。それを直視する自分にフタをして、読み易い本を求め、ただのヒマつぶしのように本に向かいたくないと思う。能動とは、自分からすすんでそこへ行き、自分の頭で積極的に考え抜くこと、と定義したい。
 ニーチェは何も、精神至上主義者ではない。むしろ肉体、現実派であって、自分で考え、自分で行為することに、人生の、また人類の未来を見ている。ひとりひとりがそうすることで、悪が放たれない未来を見ている。
 僕は、ニーチェを読むたびに、自分は血をもって、書けているだろかと自問することになる。
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