Ep.85 チキンカレー (Cari Poulet)
文字数 2,616文字
それから何年が経ったのだろう。
世界の全てを俺が知っているのか、それとも世界の全てを俺が作っているのか、それは定かではない。むしろ同じことなのかもしれない。
誰かの呼吸一つでさえ聞こえ続け、誰かのあくび一つでさえ見続ける。この生き方は、脳の容量を越えて完全に自分が無くなっていった。
俺は植物人間のようにピクリとも動かなくなった。脳の容量の全てを世界の行方に傾けなければ破裂してしまいそうだからだ。
これが世界の全てを手に入れること。
空の高さの最高到達点。
空気が薄くて息をするのも大変だ。
これが俺の、パジェスの、そしてウンバロールの求めてきた答えなのか。
誰もいない空は、あまりにも他人と共感できる部分がない。
孤高。
初めの方こそ、ウンバロールやウォーカーやニタルト、その他『ル・ゾォ(動物園)』のことをわざわざ見ることもあったが、世界の全てを知ると、彼らにも何の感慨も無くなっていった。
俺は、人間の本能が欲するあらゆる出来事を完全に諦めた。
神になる前はテオを仇だと思っていたが、神になってみるとテオは仇ではないことがわかった。
イギリス王家と仲が良い理由は、『ザ・クリエイター』が何をしても見て見ぬ振りをする、という免罪符をもらう代わりに、イギリス王家を守る契約をキングが交わしていたからだった。
宗教『ベッサル(器)』も、キングが神の代わりと称して彼らの体を使い、やるべきことを実行していた。
つまりテオは、今の俺と同じく、ただ世界を創造するための装置に過ぎなかった。ウンバロールやパジェスが襲われた理由も、俺をテオの後継者にするためにキングが仕掛けた罠だった。
本当の仇はキングだったのだ。
だが、キングには自分の体はない。
宇宙が生まれる前からそこにあるモノであり、宇宙が滅んでもそこにあるものが、キングと呼ばれるものの正体だ。
今のクリスピアン・グロブナーが死んでも、『ベッサル』の他の信者が代わりをする。
人類が滅んでもただそこにあり続ける。
つまり、仇は誰かという問いは難しく、全ては運命だった。そう呼ぶくらいしかできない出来事だ。
神になってからは、仇についてなどは考えることがなかったが。
俺は麻薬中毒というのか、糖分をとりすぎてずっとボーッとした状態というのか、とにかく脳だけが動き続けて、意識のある時はほとんどなかった。
それでも何年に一度かは意識を取り戻す時がある。
俺の取り戻した意識は、アフリカ大陸にあるフランス海外県、レユニオン島の首都サン・ドニにあった。
ウォーカーとニタルトが闘鶏を見ながら話をしている。
新婚旅行中だ。
二人はあれから、俺が二度と現世に戻らないことを嘆き悲しんでくれた。
そして、ウォーカーはプロパルクーラーとして有名になった後も、毎日のようにニタルトを慰めに行き、ついに結ばれたのだ。
「ほら、見て ! 次のニワトリはセロって言うんだって !」
ニタルトは満面の笑みだ。
「本当だ。賭けてみようか ?」
ウォーカーの声も弾んでいる。
「あら。あなた、賭け事はいないんじゃなかったっけ ?」
ニタルトは意地悪そうな目線を下から投げかけ、ウォーカーの腕にしがみついた。
「セロにだったら話は別さ。僕は、いつだってセロに全ベットしてきた人生だったからね」
ウォーカーは胸を張っておどけて見せた。ニタルトは少し表情に影を落とした後、再び聞いた。
「その人生、後悔はない ? あなたなら、セロに合わせなければお父さんの跡を継げただろうし、もっと早くプロのパルクーラーになれてたと思うわ」
「後悔か…」
ウォーカーは上を向いてつぶやいた。
「あるなー」
「ウォーカー…」
ウォーカーは、心配そうに見つめるニタルトを笑顔で見つめ返した。
「後悔は、結局、試合では一度も勝てなかったことだ。僕は、セロが神になることを何としても止めればよかったよ。そうすれば今頃、僕はセロと君と三人でここに座っていたかも知れなかったのにさ。それが今じゃ、一人は本物のニワトリになってここにいる」
「まぁ」
ニタルトは笑った後、目線をはずし、少し間を開けて話しはじめた。
「あの人は…いつも戦い続けていたわね…」
「知ってたのか ?」
「うん。だいたい。私は無邪気なフリをして、いつも彼を待ち続けていたわ。そして、あの人はいつも勝って帰ってきた」
「僕だって、試合以外では勝ったこともあるんだぜ ?」
「ウソおっしゃい」
「ホントさ。まぁ、知っているのはサン・ドニだけだけどね」
「うふ。そういうことにしておいてあげるわ」
そうか。
俺の人間としての未練はここにあったんだな。
だがもう、俺の意識はとても少ない。
人間たちはほとんど気づいていない。
二人がいちゃついている間にも、中国共産党とイルミナティ、そしていくつかの少数勢力が、人類の終わりに向けてのカウントダウンを始めている。
フタバエンドが言うように、人類の幸福には平和な世界統一という旗を掲げる必要があるのに、彼自身には全く統一しようという気がない。
結果、人類はいつまでも衝突のための力を欲し、体を改造し、遺伝子を改造し、人類の敵になるべく猿の知能を底上げする実験をおこない、AIに悪意を植え付ける。
力と力をできるだけ大きくして衝突させようとしている。
衝突が無くならない限り、人類は絶対に滅びるというのに。
もし俺がまだ人間である時にこの情報を知っていたなら、一生懸命、人類の幸せのために羽ばたいただろう。今ではボンヤリとした日々を過ごしているウンバロールも、きっと生気を取り戻して、俺と一緒に新しい世界に向かって羽ばたこうとしてくれただろう。
だが、今の俺にはそれをおこなおうとする気持ちがない。この世界全体から見れば、全てのものはただ、全てのものでしかないからだ。
何も意味などない。
俺の中のほのかな人間性も、もうすぐ消えようとしている。
その前に二人の幸せを見ることができてよかった。
今夜は二人に、神として、チキンカレーでも振る舞ってやろう。
俺はキングに命じて闘鶏の審判の体を乗っ取り、ウォーカーが賭けた「セロ」というニワトリに、ザマルをタップリと注入した。
ああ。
満ち足りた。
現世に未練はひとつもない。
俺は再び、情報の濁流に飲み込まれていった。
神はもう、何もしない。
祈る人たちの姿を見ても、何も心が動かない。
ただ、創造する。
それだけだ。
世界の全てを俺が知っているのか、それとも世界の全てを俺が作っているのか、それは定かではない。むしろ同じことなのかもしれない。
誰かの呼吸一つでさえ聞こえ続け、誰かのあくび一つでさえ見続ける。この生き方は、脳の容量を越えて完全に自分が無くなっていった。
俺は植物人間のようにピクリとも動かなくなった。脳の容量の全てを世界の行方に傾けなければ破裂してしまいそうだからだ。
これが世界の全てを手に入れること。
空の高さの最高到達点。
空気が薄くて息をするのも大変だ。
これが俺の、パジェスの、そしてウンバロールの求めてきた答えなのか。
誰もいない空は、あまりにも他人と共感できる部分がない。
孤高。
初めの方こそ、ウンバロールやウォーカーやニタルト、その他『ル・ゾォ(動物園)』のことをわざわざ見ることもあったが、世界の全てを知ると、彼らにも何の感慨も無くなっていった。
俺は、人間の本能が欲するあらゆる出来事を完全に諦めた。
神になる前はテオを仇だと思っていたが、神になってみるとテオは仇ではないことがわかった。
イギリス王家と仲が良い理由は、『ザ・クリエイター』が何をしても見て見ぬ振りをする、という免罪符をもらう代わりに、イギリス王家を守る契約をキングが交わしていたからだった。
宗教『ベッサル(器)』も、キングが神の代わりと称して彼らの体を使い、やるべきことを実行していた。
つまりテオは、今の俺と同じく、ただ世界を創造するための装置に過ぎなかった。ウンバロールやパジェスが襲われた理由も、俺をテオの後継者にするためにキングが仕掛けた罠だった。
本当の仇はキングだったのだ。
だが、キングには自分の体はない。
宇宙が生まれる前からそこにあるモノであり、宇宙が滅んでもそこにあるものが、キングと呼ばれるものの正体だ。
今のクリスピアン・グロブナーが死んでも、『ベッサル』の他の信者が代わりをする。
人類が滅んでもただそこにあり続ける。
つまり、仇は誰かという問いは難しく、全ては運命だった。そう呼ぶくらいしかできない出来事だ。
神になってからは、仇についてなどは考えることがなかったが。
俺は麻薬中毒というのか、糖分をとりすぎてずっとボーッとした状態というのか、とにかく脳だけが動き続けて、意識のある時はほとんどなかった。
それでも何年に一度かは意識を取り戻す時がある。
俺の取り戻した意識は、アフリカ大陸にあるフランス海外県、レユニオン島の首都サン・ドニにあった。
ウォーカーとニタルトが闘鶏を見ながら話をしている。
新婚旅行中だ。
二人はあれから、俺が二度と現世に戻らないことを嘆き悲しんでくれた。
そして、ウォーカーはプロパルクーラーとして有名になった後も、毎日のようにニタルトを慰めに行き、ついに結ばれたのだ。
「ほら、見て ! 次のニワトリはセロって言うんだって !」
ニタルトは満面の笑みだ。
「本当だ。賭けてみようか ?」
ウォーカーの声も弾んでいる。
「あら。あなた、賭け事はいないんじゃなかったっけ ?」
ニタルトは意地悪そうな目線を下から投げかけ、ウォーカーの腕にしがみついた。
「セロにだったら話は別さ。僕は、いつだってセロに全ベットしてきた人生だったからね」
ウォーカーは胸を張っておどけて見せた。ニタルトは少し表情に影を落とした後、再び聞いた。
「その人生、後悔はない ? あなたなら、セロに合わせなければお父さんの跡を継げただろうし、もっと早くプロのパルクーラーになれてたと思うわ」
「後悔か…」
ウォーカーは上を向いてつぶやいた。
「あるなー」
「ウォーカー…」
ウォーカーは、心配そうに見つめるニタルトを笑顔で見つめ返した。
「後悔は、結局、試合では一度も勝てなかったことだ。僕は、セロが神になることを何としても止めればよかったよ。そうすれば今頃、僕はセロと君と三人でここに座っていたかも知れなかったのにさ。それが今じゃ、一人は本物のニワトリになってここにいる」
「まぁ」
ニタルトは笑った後、目線をはずし、少し間を開けて話しはじめた。
「あの人は…いつも戦い続けていたわね…」
「知ってたのか ?」
「うん。だいたい。私は無邪気なフリをして、いつも彼を待ち続けていたわ。そして、あの人はいつも勝って帰ってきた」
「僕だって、試合以外では勝ったこともあるんだぜ ?」
「ウソおっしゃい」
「ホントさ。まぁ、知っているのはサン・ドニだけだけどね」
「うふ。そういうことにしておいてあげるわ」
そうか。
俺の人間としての未練はここにあったんだな。
だがもう、俺の意識はとても少ない。
人間たちはほとんど気づいていない。
二人がいちゃついている間にも、中国共産党とイルミナティ、そしていくつかの少数勢力が、人類の終わりに向けてのカウントダウンを始めている。
フタバエンドが言うように、人類の幸福には平和な世界統一という旗を掲げる必要があるのに、彼自身には全く統一しようという気がない。
結果、人類はいつまでも衝突のための力を欲し、体を改造し、遺伝子を改造し、人類の敵になるべく猿の知能を底上げする実験をおこない、AIに悪意を植え付ける。
力と力をできるだけ大きくして衝突させようとしている。
衝突が無くならない限り、人類は絶対に滅びるというのに。
もし俺がまだ人間である時にこの情報を知っていたなら、一生懸命、人類の幸せのために羽ばたいただろう。今ではボンヤリとした日々を過ごしているウンバロールも、きっと生気を取り戻して、俺と一緒に新しい世界に向かって羽ばたこうとしてくれただろう。
だが、今の俺にはそれをおこなおうとする気持ちがない。この世界全体から見れば、全てのものはただ、全てのものでしかないからだ。
何も意味などない。
俺の中のほのかな人間性も、もうすぐ消えようとしている。
その前に二人の幸せを見ることができてよかった。
今夜は二人に、神として、チキンカレーでも振る舞ってやろう。
俺はキングに命じて闘鶏の審判の体を乗っ取り、ウォーカーが賭けた「セロ」というニワトリに、ザマルをタップリと注入した。
ああ。
満ち足りた。
現世に未練はひとつもない。
俺は再び、情報の濁流に飲み込まれていった。
神はもう、何もしない。
祈る人たちの姿を見ても、何も心が動かない。
ただ、創造する。
それだけだ。