Ep.20 黒いダイヤモンド (Diamond Noir)

文字数 2,923文字

 その夜、俺は貧民たちに紛れ、誰も知らない安い酒場で一人ラフロイグ(ウォッカ)を飲み、自分の人生を振り返りながら、五臓六腑を高級酒で洗い直していた。
 明日からは、五人の部下を使って、このバルベス地区をおさめなくてはならない。おさめるとはどういうことか。部下はどんな部下がやってくるのか。考えなくてはならないことは山積みだ。
 けれども、今、考えていることは、ニタルトのことばかりだった。
 俺もついにここまできた。これからはお金も手に入れることができるし、威張ることもできる。もう飼いならされたヒヨコではない。空も飛べるニワトリだ。これならニタルトの美しさとも釣り合うのではないだろうか。
 俺は女に興味がある年頃なので、微々たるお金を得てから風俗には行っている。顔がいいのでナンパだってお手の物だ。クラブで行きずりの女を拾ったこともある。地位も手に入れたので、これからはさらに女を抱けるだろう。
 確かに女は素晴らしい。素晴らしいが、女を抱くと、思いだすのはいつもニタルトのことだ。子供の頃からずっと憧れていたニタルト。いつか手に入れたいと思っている黒きダイヤモンド。永遠の美。
 俺は、自信を得たことで、ようやく、今までニタルトに手を出さなかったのは、自分に自信がなかったのだということに気がついた。女という生き物は、ある一定以上のレベルの誰かが好きだと言いまくると、たいして好きでも無いのについていってしまう生き物だ。そして、性行為を行うと、そのまま好きになってしまう生き物だ。急がないと、明日にでも誰かが告白してしまうかもしれない。いや、もしかしたら、もうすでに男がいるのかもしれない。
 これは、世界中の男とのチキンレースだ。どこまでブレーキを踏まずに近寄ることができるのか。
 告白するのは今しかない。
 思い立ったが吉日、とはこのことだ。
 俺は、酔いに任せてスマートフォンを取り出した。子供の頃から、何度も連絡帳を開いていながら、一度たりともボタンを押せなかった、「ニタルト」と書かれた文字。メールの下書き帳には、百を超えるニタルトへの、長い長い愛情のこもった下書きが埋まっている。
『今から来られないか ? サクレ・クール寺院の大階段の下で待っている』
 他にもいろいろな思いが浮かんでくるが、全てを無視しよう。こういうものは、簡潔なほどいいものだ。
 俺は冷たくなった指で、『送信』と書かれたボタンを撫でた。

「どうしたの ? 急に呼び出して。初めてじゃん、誘ってくれたの」
 サクレ・クール寺院の大階段で座っていた俺に、ニタルトは、雌鹿のように軽快な足取りで近づいてきた。
「あら、お酒臭い。酔ってるの ?」
「いや、酔ってない。強いていえば、ニタルト。君の美しさに酔っている」
 俺は、ぼやけた視界でニタルトを見た。高いものを着ているわけではなく、ラフでいながらセンスを感じる出で立ち。ジャージとロングスカートを合わせながらも、スタイルの良さは全く隠れていない。
 うん。やはり美しい。ルーブル美術館にあるどの所蔵物よりも、彼女が一番輝いているだろう。
 俺は立ち上がって、尻についた砂を払い、五段ほど下にいるニタルトの前に一息で跳んだ。
「危ないわよ」
「今日は、どうしてもニタルトと会いたかったんだ。おごるから飲みに行こう」
「あの時の子供が、今では随分立派になったわね。こんなに大きくなって」
 ニタルトは手を伸ばして、同じくらいの身長の俺の頭を軽く撫でた。あちらからガードを壊してくれるのなら、俺も相手に甘えられる。俺は勢いよく、ニタルトの腰を抱えて酒場に向かった。

 酒場ではカウンターに案内されたので、他人に聞かれて恥ずかしいような話はできない。俺は、最初の勢いが空回りして、結局、固まってしまった。そんな俺の気持ちを見透かすように、ニタルトが中心になって話してくれる。
 最初は、『クーデール』の新人についてや、『ラ・リュミエール・ド・モンマルトル(光)』として世界大会でどのくらいの成績をおさめているのかなど、パルクールに関する差し障りのない話題で入った。最近は忙しくてどちらにも参加できていないからだ。
 だが、徐々に話は、ニタルトのプライベートに及んでくる。インターコンチネンタルホテルで働いていること。ホテルに来るゲストや上司に対する愚痴。さらに、オズワルドとは週に一度は食事に行く仲だとか、ウォーカーは良い相談役だという話も聞いた。
 きっと、話に出てきた全ての男は、ニタルトのことを狙っているのだろう。その上ニタルトは、「あーあ。私も、出会い系サイトとか使ってみようかなー」とか言い出す始末だ。
 その、厚ぼったい唇から発せられる他の男の名前は、俺にとって、「酔い」が「悪い」に変換されてしまうほど嫉妬を覚えるものだった。
 俺は何度も告白しようとしたが、雰囲気としてどうしてもタイミングを掴めず、ニタルトの方も、なぜ自分を呼び出したのかというような話を全くしてくれなかった。

 二時間ほど酒を飲み、俺たちは酒場を出た。
 もうすでに、すっかり出来上がっている。
「楽しかったわ。じゃあ、また明日ね !」
 ああ。ニタルトが行ってしまう。このまま行ってしまえば、また、ニタルトとはいつも通りの関係だ。ニタルトには今、付き合っている男はいないんだ。「出会い系を使いたい」なんて言うほど、相手がいないんだ。これは千載一遇のチャンスじゃないか。今だ。今、行動するしかない。両手を握りしめて、じっと目を見て、告白をしたい。告白だ。告白をするんだ。時間よ。俺の決断を、しばし、しばし待ってくれ。
 しかし時間は、俺の考えなど御構い無しに進んでいき、俺は、ニタルトのあまりの美しさに、身悶えて縮こまるだけだった。
「おやすみ !」
 そんな俺の気持ちなどつゆ知らず、ニタルトは手を振った後、走って夜の闇に溶け込んでいった。
 俺は、自分にガッカリとしながら、夜のモンマルトルの起伏の激しい白い道をフラフラとよろめきながら歩いていった。
 体も大きくなり、地位も上がったが、その姿は幼い頃にフラフラと散歩していたあの時のままだ。
 自嘲しながら、なぜ自分が告白できなかったのかを考えた。
 だって、もう、告白してもいいはずじゃないか。
 冷たい街灯を両手で抱えて何度か吐いた後、俺はそのすえた匂いの中で一人の男の姿に思い当たった。
 ウォーカー。
 そうだ。
 ウォーカーだ。
 自分がこんなにも最後の一歩を踏み込めないのは、ウォーカーのせいだ。
 俺は、ニタルトからウォーカーの名前が出るたびに、その嫉妬は頂点に達していた。ニタルトはおそらくウォーカーのことを好きなような気がする。そして、ウォーカーもニタルトのことを好きだという気がする。
 人間観察に優れている俺の勘は、絶対にそうだという証拠を次々と頭の中に浮かび上がらせていた。『クーデール』での態度。『ラ・リュミエール・ド・モンマルトル』に彼女を誘った時のこと。考えれば考えるほど、その考えは確信に変わってきた。
 ウォーカー。
 そろそろ、蹴りをつけなくてはいけない時が来たのかもしれない。
 俺は、吐きすぎて震える足で、彼との対決を決意していた。
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