Ep.03 ヒヨコ (Poussin)

文字数 3,630文字

 その日、僕はもう一つの、人生を変える大きなプレゼントをもらった。
 延々二時間ほど当てども無く街を歩き回り、ルビック通りに差し掛かった時のことだった。一区画へだてたノルヴァン通りからは観光客の喧騒(けんそう)が聞こえる。
 僕は、誕生日も年齢も無かった時には目線を上げたことが無かった。上を向いたからといってお金が降ってくるわけではないし、目線が合ったがために生意気だと言われて、知らない男の集団に虐(いじ)められることもあるからだ。
 だが、自分を知った今、僕は自信が漲(みなぎ)っていた。自信が漲るといつの間にか目線も上に向いてくる。そして上を向いている僕の目線には、何人もの人影が建物の壁を登っていく姿が入ってきた。
 泥棒 ?
 モンマルトルでは珍しくないことだ。しかもブドウ収穫祭で浮かれているのだから盗むには適している季節なのかもしれない。いつもの僕ならばこういう厄介な出来事に首を突っ込んでしまうことは避けようと慌てて目を逸らすのだが、今日は自信があったので、ただ興味の赴(おもむ)くまま、じっと人影の様子を伺(うかが)っていた。
 人影の一団は、建物の窓から部屋の中には侵入せず、壁を伝(つた)って建物の屋上まで上がっていった。そして何かを話し合ったかと思いきや、突然走り出した。一団は建物の屋上から隣の建物の屋上へと跳び移り、さらにどんどんと速度を上げていく。バク転をしたり、かっこいいポーズを決めたりしながら、人影たちは徐々に僕の視界から外れていこうとしている。
 僕は心を奪われた。彼らは本当に人間なのだろうか。もしも人間なのだとしたら、あんなにも美しく動けるなんてことが本当にありうるのだろうか。
 いつも麻薬や酒の中毒になってヘベレケになりながら太ったお腹をさすっている臭い大人たちしか見ていなかった僕は、彼らのあまりのかっこよさに心を全て持っていかれていた。気がつくと、麻薬中毒患者のように夢中で彼らを地べたから追いかけていた。自分から湧き出てくる思いが止められなかった。
 憧れとは、誰かに与えられたモノではない「なりたい姿」だ。僕は初めて、空を駆け回る彼らに憧れを抱いていた。

 壁抜け男という有名な像が壁から生えているマルセル・エイメ広場で、一団は、僕と同じ石畳に降臨した。全部で六人。人種はバラバラだが、お揃いの茶色いツナギを着ている。人影たちは体から湯気が立ち込め、呼吸を整えていた。だが、そのうちの一人だけは息を切らしていない。フランス人だと明らかにわかる、鼻筋の通った、顔立ちの美しい白人の青年だ。青年は嬉しそうな顔で黒茶色の長髪をかきあげ、自分たちを追いかけてきた子供に声をかけた。
「どうしたんだ ?」
「なにやってんの ?」
 怖いものなど何もない。僕は質問に対して質問で返した。
「これはパルクールっていうスポーツ競技さ」
「楽しそう」
「やってみるか」
「うん !」
「よし。名前は」
 青年は僕の頭を撫でた。
「セロ。今日誕生日なんだ」
「おめでとう。俺はパジェス。ドゥーファン(イルカ)と呼ばれている。空を泳ぐイルカさ。俺たちはみんな動物名で呼び合っているんだ」
「なんで ?」
「その方がかっこいいだろ ?」
「かっこいい」
「お前にも動物名をつけてやろう。誕生日だからな」
 パジェスはいたずらっ子らしい目つきで僕を見下ろした。二重瞼が優しい。僕はどんな名前がもらえるのかと期待に胸を膨らませ、パジェスの血色の良い唇が開く動きを目で追った。
「よし。お前はまだ小さいし、金髪だから、プゥサン(ひよこ)だ」
「プゥサン」
 あまりかっこよくないが、新しい名前をもらったことはまんざらではない。僕は大きくうなづいた。

 それから僕は六人に連れられて、近くにあるシュザンヌ・ビュイッソン公園に向かった。六人は僕に優しかった。短い黒髪を立てた目つきの鋭い青年が話しかけてくる。
「俺はレンドルフというんだ。シエンヌ・ド・ギャルド(番犬)と呼ばれている」
「僕はプゥサン。よろしく」
 レンドルフは鋭い目つきのままで笑った。
「プゥサン。パルクールってなんだか知ってるか ?」
「飛んだり跳ねたりするやつ ?」
「まぁ…、そうだな」
 レンドルフとの会話はそれで終わった。どうやらあまり話がうまくないようだ。一番後ろにいた背の小さな青年が、少しめんどくさそうな早口で話の続きをする。
「パルクールっつーのはフランスの軍隊移動術で、どのような場所でも素早く移動するための方法として発生したフリーランニングがそのルーツさ。その後、フランスらしく、より芸術的に発展してきた、てわけ。俺たちは『クーデール(羽ばたき)』っつーパルクールのチームなんだ」
 僕はあまりに急に情報が入ってきたために目を瞬(しばたた)かせた。青年はあー、という顔をした。
「自己紹介を忘れてたね。僕はオズワルド。ラバン(うさぎ)だ。よろしく」
 口の塞がらない僕の肩を優しく抱いて、オズワルドは僕と一緒に公園まで歩いていった。
 シュザンヌ・ビュイッソン公園は柵に囲まれた比較的大きな広場だ。木が生い茂っており、何よりも大きな特徴として、首を抱えた首の無い聖人(サン・ドニ)の像が建っている。一同は像の近くに持っていたポーチを置いて柔軟を始めた。
「プゥサンはまず見ておけ」
 レンドルフに言われ、僕は近くの木にもたれかかって彼らの動きを見ていた。実際、近くで彼らの練習を見てみると、自分が思っていたよりも遥かに感動する動きがそこにはあった。自分の知らないことは想像すらできないものなのだ。
 彼らは木や街灯に簡単に登るが、僕は登るということがどんなに難しくて無様な格好になってしまうかを知っている。また、柵を一つ乗り越えるのにも、蹴り上がったり、一回転したり、手をかけて一気に登ったりと、様々なバリエーションがある。
 しかも、同じ技を繰り出したとしても、六人が六人とも、それぞれ特徴の異なる美しさだというところがまた素晴らしかった。
 人間の体が、ただ息を吸って吐くだけの生物(ナマモノ)では無い、足が、ただ交互に出して前に進むだけの移動手段では無いということがわかって、自分の体が一気に尊いものに感じた。僕は自分の体が鼻と口以外にも全身の毛穴からも呼吸をしていることを感じながら、尚も彼らの動きに見惚れていた。
 パジェスは本当にイルカが飛び跳ねるかのように大胆な動きだった。技の完成度としても他の五人と比べて群を抜いた美しさだ。レンドルフはミスのない動きをするし、オズワルドは横回転系の技をよく繰り出す。
 みんな凄かったが、僕はいつの間にか、一人の黒人の女性だけに目を奪われていた。しなやかなモデルのような体躯で、長い手足を柔軟に動かす。僕はあまりの美しさに我を忘れた。自分の口からよだれが垂れているのも気がつかないほど全神経を彼女に奪われてしまった。
「おい、どうした ?」
 パジェスに背中を叩かれ、僕は我に返った。叩かれなければ今頃は天国に行っていたかもしれない。何が起きたかわからず周りを見回す僕に、彼女は近づいてきて手を伸ばした。
「ニタルト。ビシュ(雌鹿)と呼ばれているわ」
 僕は人生で初めて握手をした気がした。太陽の柔らかさだけを凝縮したかのような温かいぬくもり。もともと自分の手のひらと一つだったのではないかと思わせるほどのしっとりとした張り付き。
 僕はこの時間がずっと続けばいいなと思っていたが、他の人に見られていることが恥ずかしくて、本音が分からないようにぶっきらぼうな顔で手を離した。残りの二人とも挨拶を交わしたが、僕の脳はニタルトで容量がいっぱいになり全く覚えることができなかった。彼らと挨拶の握手を交わすたびにニタルトの匂いや温もりが上書きされてしまいそうで、僕は必死でその瞬間の感動を忘れないようにし続けた。少しだけ僕の思い出は汚されてしまったが全ての挨拶は終わった。パジェスは僕に言った。
「俺たちは『クーデール』というパルクールチームだ。月曜と木曜の十五時に、毎回この公園に集まって練習をしている。お前は筋がいいし面白い。いい仲間になれそうだ。また来いよ、プゥサン(ひよっこ)」
 クーデール。羽ばたき、か。
 『クーデール』 のメンバーは、思い思いの挨拶を交わして去っていった。
 僕は感極まりながら手を振った。何度も何度も、手の筋肉が左右に飛ばされそうなくらい思い切り手を振った。そして全員が見えなくなると、手を振るのをやめて棒立ちになった。
 ニタルト、か。
 握った右手を薄暗がりの中でじっと見つめて、僕は、もう物理的にはないのかもしれないぬくもりをじんわりと感じ、ニタルトと握手を交わした事実を確かめるように右コブシを握りしめた。
 別に急いで帰らなければならない場所があるわけでもない。僕はいつまでも、自分の体温が秋風に持っていかれて右コブシ以外が全て冷えてしまうくらい、いつまでも右コブシを握りしめた。
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