Ep.05 嫉妬 (Jalousie)
文字数 3,331文字
十二歳の夏、僕たち『クーデール(羽ばたき)』は、いつものようにシュザンヌ・ビュイッソン公園で練習をしていた。
ここのところ、毎日一人の小さな観客がいる。木陰の濃い部分に隠れて、二つの大きな目玉をぎょろぎょろとさせている手足の細い黒人の少年だ。歳は僕に近いだろう。毎回、淡い蛍光色の小ぎれいな洋服を着ている。貧乏な少年ではなさそうだ。
僕たちはリーダーであるパジェスが何も言わないこともあり、彼に気にせず練習に没頭していた。
セロたちのパルクールは練習とはいえ美しいもので、ただの移動術にとどまらず、まるでダンスを踊っているかのように見える。そのため、立ち止まって見学をする観光客はかなり多い。だが、毎回毎回こちらの目を憚(はばか)るようにしながら、最初から最後までずっと自分たちの動きを睨み続けている少年は、彼一人だった。
彼が来てから二週間が過ぎた。僕は、少年のことが気になって気になって仕方がなくなってきた。自分たちを親の仇のようにして睨んでいるのに、たまに気がつくとパルクールの真似をして、ちょっと木を蹴って跳び上がるそぶりを見せたりしている。大抵は失敗して転ぶのだが、尻餅をつきながらもその目を輝かせ、口元は緩みに緩んでいた。誰かが見ていることに気がつくと、急にまた睨みながら木陰に隠れてしまうのだが。まるで昔の自分を見ているようだ。
そんな少年にパジェスも興味を持ったのだろう。練習も終わりに近づき、日も暮れ始めたある日、パジェスは半身を起こして、息を切らして倒れている僕に言った。
「プゥサン(ひよこ)。あそこにいる少年を捕まえてきてくれ」
僕は疲れていたが、自分でも気になっていたので、待ってましたと言わんばかりにバネのように勢いよく跳ね起きた。パジェスは、少年にも聞こえるほどの大きな声で命令したので、少年はその声に気づいて一足先に逃げている。
その差二十メートルか。まったく。パジェスも悪趣味だぜ。
僕はウサギ(ラパン)を狩るライオン(リオン)にでもなったような気持ちで、余裕綽々に少年を追った。
が、少年の走るスピードが速い。いや、速いなんて軽い表現では表しきれない。速すぎる。疲労で体が重くなり、しかも本気を出してはいないとはいえ、走る速度には自信を持っている僕から逃げ切りそうな速度だ。
にゃろう。やりやがんな。
僕は首にかけていたタオルをきつく結び直し、本気で少年に追いすがった。いくら少年が速いとはいえ、セロも足が速い。そのうえパルクール技術があるので、最短距離を最速で走ることができる。公園を抜けて住宅街に入った途端に、みるみる少年との距離は縮まった。
悔しそうな顔で何度も振り返りながら、縮まる距離の確認をする少年。
無力ではない獲物を捕まえる高揚感。
生物のオスとしての勝利欲が達成される充足感。
僕の背筋をゾクゾクと嗜虐性が走る。
少年の腕に指がかかる。
僕はそのまま難なく、一回り細い少年の手首を捕まえ、怪我をさせないように注意しながらひねり倒した。TIOR-C4(軍隊格闘術)の練習の賜物だ。
「なかなかのギャルソン(ボーイ)だな」
隣にはいつの間にかパジェスが立っていた。
「速いですよね」
その彼よりも速かった僕は、とうぜん褒められるものと思いながら敵をたたえた。
「うん。直線距離だけはプゥサンよりも速かったんじゃないか ?」
「そうかもしれないですね」
笑うパジェスに合わせて僕も余裕を見せたくて笑ったが、心の中には何か黒い、小さなゴミの塊が発生したような気がした。
「お前、名前は ?」
悔しそうな顔をして地面にほおを押し付けられたまま、それでもなお、少年はパジェスを睨む。
「名前を聞いているんだ !」
僕は語勢を荒げ、少年の頭を押さえつける手に力を込めた。
「ああ。やめろやめろ」
パジェスは、僕に命令した後でしゃがみこみ、僕の手をそっと外した。僕は両手とも離して立ち上がった。少年も、もっさりと立ち上がり、体についた大量の砂を払った。
「名前はなんていうんだ ?」
パジェスはにこやかに、しゃがんだまま少年に話しかける。パジェスと少年の目線は同じ高さだ。
「ウォーカー」
少年はぶっきらぼうな声を出す。分厚い唇からは少し血が滲んでいる。
「ウォーカー。そうか。いい名前じゃないか。俺はパジェス。ドゥーファン(イルカ)て呼ばれてる。こいつはセロ。プゥサン(ヒヨコ)だ」
パジェスは、ウォーカーの両肩に手をかけた。
「ウォーカー。お前はなぜ、毎日俺らの練習をのぞいていたんだ ?」
「速くなりたいから」
「他人の練習を見ていると速くなれるのか ? 違うだろう。速くなる練習をしないと速くはなれない」
周りを見渡すと、いつのまにか『クーデール』全員が集まっていた。
「ウォーカー。お前は速く走りたいか ?」
「走りたい」
「そのためならどんなことでもするか ?」
ウォーカーは少し言い淀んだ。
「そうだよな。お前の服装を見ていると、俺らスラム育ちと比べて、随分とちゃんとした家の人間のようだ。汚れることはできないか」
「できる !」
パジェスの言葉に、ウォーカーは跳ね返るように返事をした。自分の家に何か不満があるのかもしれない。
「お前は、俺らと一緒に、速く走るための練習をしたいか ?」
「したい !」
「したい、ですだろ ?」
「したい…です」
「もっと大きな声で」
「したいです !」
「よーし。最低限礼儀は忘れるなよ」
パジェスは、にこやかに全員を見回した。
「どうだ、みんな。こいつを家族の一員として加えてもいいというやつはいるか ?」
周りを見渡すと、みんなが笑顔でうなづいている。
「セロ。お前はどうだ ?」
僕は、何かまったくわからない、不吉な予感がしたが、自分だけが認めないと度量の狭い男に見られる思いがして、精一杯の強がりを込めて答えた。
「ウォーカーが何歳でも、オレが兄貴だからな」
ウォーカーは、初めて笑顔になった。
「俺たちファミリーは、それぞれ動物名で呼び合うことになっている。お前はそうだな。ポンテール・ノワール(黒豹)の子供はなんていうんだっけ ?」
「ポンテー(パンサー)は子供でもポンテーだ」
ウォーカーは、キッと黒豹のような目つきでパジェスをにらんだ。
「ふん。いい目をしやがる。よし。お前は今日からポンテール・ノワールだ。よろしくな」
「よろしく…」
ウォーカーは、言い淀んだ後で一言付け加えた。
「お願いします」
メンバーは一様に笑顔になって、ウォーカーの肩や頭を叩いて歓迎した。
こいつは最初からかっこいい名前なのに僕はプゥサン(ヒヨコ)。この差は一体なんなんだろう。人は出会ってすぐの印象が大事だというが、それだけでここまでの差がつくのだろうか。
僕はみんなと同じようにウォーカーの肩を叩いたが、心のモヤモヤは膨らんでいくばかりだった。ただ、この事象を、『嫉妬』という言葉で表されるということは、子供である僕にはまだわからなかった。
『クーデール(羽ばたき)』にウォーカーが加入して数ヶ月が過ぎた。あの時感じた嫌な予感は杞憂だった。僕は嘘のようにウォーカーと仲がよくなった。ウォーカーは思った通りに僕と同じ年齢だったが、誕生日が十月十一日だった。僕より一日年下だ。僕は、自分の誕生日が十月十日だった事に感謝した。
言葉使いこそ対等だが、先輩で年上でパルクールもうまくて格闘術も使える僕に対して、ウォーカーは明らかに一目を置いていた。僕は、『クーデール』の中で一番後輩で、他のメンバーとは年齢も大きく離れていたが、ウォーカー が入った事によって、初めて自分より下の人間が存在する事になった。
他のメンバーは僕のことを可愛がってくれるので全員好きだが、それとは違って、初めて尊敬の念を持たれたことで、僕は他のメンバーとはまた違う愛情をウォーカーに抱いていた。
僕はウォーカーとの相乗効果によって、著(いちじる)しくパルクールの腕前を上げていった。生活は苦しく、稼ぎは全て組織の上役に搾取(さくしゅ)されるが、決められた稼ぎさえきちんと上納していれば、自由な時間を束縛はされない。
僕は、この楽しい生活がいつまでも続くといいなと思った。
ここのところ、毎日一人の小さな観客がいる。木陰の濃い部分に隠れて、二つの大きな目玉をぎょろぎょろとさせている手足の細い黒人の少年だ。歳は僕に近いだろう。毎回、淡い蛍光色の小ぎれいな洋服を着ている。貧乏な少年ではなさそうだ。
僕たちはリーダーであるパジェスが何も言わないこともあり、彼に気にせず練習に没頭していた。
セロたちのパルクールは練習とはいえ美しいもので、ただの移動術にとどまらず、まるでダンスを踊っているかのように見える。そのため、立ち止まって見学をする観光客はかなり多い。だが、毎回毎回こちらの目を憚(はばか)るようにしながら、最初から最後までずっと自分たちの動きを睨み続けている少年は、彼一人だった。
彼が来てから二週間が過ぎた。僕は、少年のことが気になって気になって仕方がなくなってきた。自分たちを親の仇のようにして睨んでいるのに、たまに気がつくとパルクールの真似をして、ちょっと木を蹴って跳び上がるそぶりを見せたりしている。大抵は失敗して転ぶのだが、尻餅をつきながらもその目を輝かせ、口元は緩みに緩んでいた。誰かが見ていることに気がつくと、急にまた睨みながら木陰に隠れてしまうのだが。まるで昔の自分を見ているようだ。
そんな少年にパジェスも興味を持ったのだろう。練習も終わりに近づき、日も暮れ始めたある日、パジェスは半身を起こして、息を切らして倒れている僕に言った。
「プゥサン(ひよこ)。あそこにいる少年を捕まえてきてくれ」
僕は疲れていたが、自分でも気になっていたので、待ってましたと言わんばかりにバネのように勢いよく跳ね起きた。パジェスは、少年にも聞こえるほどの大きな声で命令したので、少年はその声に気づいて一足先に逃げている。
その差二十メートルか。まったく。パジェスも悪趣味だぜ。
僕はウサギ(ラパン)を狩るライオン(リオン)にでもなったような気持ちで、余裕綽々に少年を追った。
が、少年の走るスピードが速い。いや、速いなんて軽い表現では表しきれない。速すぎる。疲労で体が重くなり、しかも本気を出してはいないとはいえ、走る速度には自信を持っている僕から逃げ切りそうな速度だ。
にゃろう。やりやがんな。
僕は首にかけていたタオルをきつく結び直し、本気で少年に追いすがった。いくら少年が速いとはいえ、セロも足が速い。そのうえパルクール技術があるので、最短距離を最速で走ることができる。公園を抜けて住宅街に入った途端に、みるみる少年との距離は縮まった。
悔しそうな顔で何度も振り返りながら、縮まる距離の確認をする少年。
無力ではない獲物を捕まえる高揚感。
生物のオスとしての勝利欲が達成される充足感。
僕の背筋をゾクゾクと嗜虐性が走る。
少年の腕に指がかかる。
僕はそのまま難なく、一回り細い少年の手首を捕まえ、怪我をさせないように注意しながらひねり倒した。TIOR-C4(軍隊格闘術)の練習の賜物だ。
「なかなかのギャルソン(ボーイ)だな」
隣にはいつの間にかパジェスが立っていた。
「速いですよね」
その彼よりも速かった僕は、とうぜん褒められるものと思いながら敵をたたえた。
「うん。直線距離だけはプゥサンよりも速かったんじゃないか ?」
「そうかもしれないですね」
笑うパジェスに合わせて僕も余裕を見せたくて笑ったが、心の中には何か黒い、小さなゴミの塊が発生したような気がした。
「お前、名前は ?」
悔しそうな顔をして地面にほおを押し付けられたまま、それでもなお、少年はパジェスを睨む。
「名前を聞いているんだ !」
僕は語勢を荒げ、少年の頭を押さえつける手に力を込めた。
「ああ。やめろやめろ」
パジェスは、僕に命令した後でしゃがみこみ、僕の手をそっと外した。僕は両手とも離して立ち上がった。少年も、もっさりと立ち上がり、体についた大量の砂を払った。
「名前はなんていうんだ ?」
パジェスはにこやかに、しゃがんだまま少年に話しかける。パジェスと少年の目線は同じ高さだ。
「ウォーカー」
少年はぶっきらぼうな声を出す。分厚い唇からは少し血が滲んでいる。
「ウォーカー。そうか。いい名前じゃないか。俺はパジェス。ドゥーファン(イルカ)て呼ばれてる。こいつはセロ。プゥサン(ヒヨコ)だ」
パジェスは、ウォーカーの両肩に手をかけた。
「ウォーカー。お前はなぜ、毎日俺らの練習をのぞいていたんだ ?」
「速くなりたいから」
「他人の練習を見ていると速くなれるのか ? 違うだろう。速くなる練習をしないと速くはなれない」
周りを見渡すと、いつのまにか『クーデール』全員が集まっていた。
「ウォーカー。お前は速く走りたいか ?」
「走りたい」
「そのためならどんなことでもするか ?」
ウォーカーは少し言い淀んだ。
「そうだよな。お前の服装を見ていると、俺らスラム育ちと比べて、随分とちゃんとした家の人間のようだ。汚れることはできないか」
「できる !」
パジェスの言葉に、ウォーカーは跳ね返るように返事をした。自分の家に何か不満があるのかもしれない。
「お前は、俺らと一緒に、速く走るための練習をしたいか ?」
「したい !」
「したい、ですだろ ?」
「したい…です」
「もっと大きな声で」
「したいです !」
「よーし。最低限礼儀は忘れるなよ」
パジェスは、にこやかに全員を見回した。
「どうだ、みんな。こいつを家族の一員として加えてもいいというやつはいるか ?」
周りを見渡すと、みんなが笑顔でうなづいている。
「セロ。お前はどうだ ?」
僕は、何かまったくわからない、不吉な予感がしたが、自分だけが認めないと度量の狭い男に見られる思いがして、精一杯の強がりを込めて答えた。
「ウォーカーが何歳でも、オレが兄貴だからな」
ウォーカーは、初めて笑顔になった。
「俺たちファミリーは、それぞれ動物名で呼び合うことになっている。お前はそうだな。ポンテール・ノワール(黒豹)の子供はなんていうんだっけ ?」
「ポンテー(パンサー)は子供でもポンテーだ」
ウォーカーは、キッと黒豹のような目つきでパジェスをにらんだ。
「ふん。いい目をしやがる。よし。お前は今日からポンテール・ノワールだ。よろしくな」
「よろしく…」
ウォーカーは、言い淀んだ後で一言付け加えた。
「お願いします」
メンバーは一様に笑顔になって、ウォーカーの肩や頭を叩いて歓迎した。
こいつは最初からかっこいい名前なのに僕はプゥサン(ヒヨコ)。この差は一体なんなんだろう。人は出会ってすぐの印象が大事だというが、それだけでここまでの差がつくのだろうか。
僕はみんなと同じようにウォーカーの肩を叩いたが、心のモヤモヤは膨らんでいくばかりだった。ただ、この事象を、『嫉妬』という言葉で表されるということは、子供である僕にはまだわからなかった。
『クーデール(羽ばたき)』にウォーカーが加入して数ヶ月が過ぎた。あの時感じた嫌な予感は杞憂だった。僕は嘘のようにウォーカーと仲がよくなった。ウォーカーは思った通りに僕と同じ年齢だったが、誕生日が十月十一日だった。僕より一日年下だ。僕は、自分の誕生日が十月十日だった事に感謝した。
言葉使いこそ対等だが、先輩で年上でパルクールもうまくて格闘術も使える僕に対して、ウォーカーは明らかに一目を置いていた。僕は、『クーデール』の中で一番後輩で、他のメンバーとは年齢も大きく離れていたが、ウォーカー が入った事によって、初めて自分より下の人間が存在する事になった。
他のメンバーは僕のことを可愛がってくれるので全員好きだが、それとは違って、初めて尊敬の念を持たれたことで、僕は他のメンバーとはまた違う愛情をウォーカーに抱いていた。
僕はウォーカーとの相乗効果によって、著(いちじる)しくパルクールの腕前を上げていった。生活は苦しく、稼ぎは全て組織の上役に搾取(さくしゅ)されるが、決められた稼ぎさえきちんと上納していれば、自由な時間を束縛はされない。
僕は、この楽しい生活がいつまでも続くといいなと思った。