Ep.24 男と男の決戦 2 (Les Hommes Meurent)
文字数 3,274文字
次は『スピードラン』だ。この、たった五十メートルのコースを三周。これだけの勝負。これで全てが決まる。
絶対に俺が勝つ。けれども、もし万が一、負けたとしても、この男にならば、悔いは残らない。
そう思えるほど、ウォーカーに対してのリスペクトは止まなかった。
だが、もちろん俺が勝つ。その自信は微塵も揺るがない。あとは、どう勝つか。ただ、それだけの問題だ。
コースはやはり障害物が多い。『チェイスタグ』で戦った感じでは、俺がミスをしなければ、ウォーカーに勝てる可能性はかなり高いだろう。先程もウォーカーは、障害物を一つ超えるのに、ギリギリではなく、三センチは無駄な動きをしていた。自分のスピードが生かしきれずに、良いタイミングで止まれない場面もあった。これが三周続けば、結構な弱点になる。
あそこでは二回転からの縦ロール。そこから手をついて、四つ足のままジャンプ。手すりを掴んで勢いを殺し、まっすぐ下に降り…。俺は、コースを見ながら、すぐに戦術を立てた。
これなら勝てる。
だが、俺はなぜか、不吉な悪寒(おかん)が、自分の背筋をそっと撫(な)でたように感じた。先ほど戦った感覚から「負けはない」と分析したが、体は自然と警戒してしまっているようだ。
いや。この感じはまずい。こう思うことは、負けへのフラグのようだ。今の悪寒は、単に、汗が背筋を落ちていっただけだ。そうに違いない。
俺は、自分の身体中を叩いて、自分を鼓舞した。
がんばれよ、俺の体。俺は、俺のことを、俺の努力を、俺の才能を、信頼してるぞ。
俺は叩いているうちに、俺の体が、「うん。わかってる。任せとけ」と、答えているような気がした。
いよいよスタートだ。
ウォーカーは軽く飛び跳ねてスタートを待っているが、俺はクラウチングスタートの体勢をとる。こうした方が集中できるのだ。
先程までは、自分の体だけに神経が張り巡らされていたが、今は、会場全体を、自分の神経が支配している。極度に集中が高まった時の状態だ。ウォーカーの動きを見ずとも、ウォーカーの動きが手にとるようにわかる。
三。
二。
一。
俺は、今までの試合を見ていて、審判の動きの癖(くせ)を覚えていた。スタートの合図の旗を持った手が振り下ろされる瞬間。肩が動くタイミングを、しっかりと覚えていた。
スタート !
一歩めは、俺の方が早かった。
だが、最初の十メートルは直線距離だ。
すぐに追い抜かれる。
これは予想通り。
棒に飛び付き、クルリと角を曲がる。
ここからは段差ゾーンだ。
俺は、跳びすぎて余分な時間を食わないように、すれすれの部分で体をコントロールし、スピードを殺さずに走っていった。
うん。調子がいい。これなら勝てる。
ウォーカーは、やはり、こういう繊細な部分が、少し雑だ。超一流ではあるが、俺のレベルには達していない。俺は、二つめの角を曲がり、三つめの角を曲がったところで、一歩だけ有利になった。
一歩だけの有利。
これが勝負を左右する。
二周めに入る。
次の直線では、俺の有利な一歩は打ち消されてしまい、逆に、一歩の有利を得られてしまう。
けれどもやはり、一周する頃には、俺が一歩だけリードをしている。
作戦通り。
一進一退とはこのことだ。
観客はヒートアップした。
たった一度のミスであっという間に抜かれさる緊張感。まるで、パンサーに狙われているニワトリの気分だ。気を抜いたら鋭い牙(きば)で切り裂かれ、フランス料理のフルコースの一品として、オシャレに毛を抜かれ、食卓に提供されてしまう。
この感覚は、『レ・テネーブル・ド・モンマルトル(モンマルトルの闇)』では感じたことのない気持ちの高まりだった。
逃げるわけではない。戦いだ。
ライバルとどこまで羽ばたけるか。どこまでこの圧力に耐えられるか。昔だったらとても耐えきれないが、今の経験値を積んだ自分になら、耐えきることができる。
いや。むしろ、全身で楽しさを味わい尽くせる。
俺はなぜか、子供の頃は大嫌いだったエビが美味しいと感じるようになった、十六歳の、あの日の感激と同じドーパミンを放出していた。
何度も抜きつ抜かれつになりながらも、ついに最終周。
一見いい勝負のように見えるかもしれないが、ウォーカーにはわかっているだろう。一周が終わるたびに、俺の方が一歩前にいる。
つまり、この勝負、俺の勝ちは揺るがない、と。
俺は、一歩だけ手前を走っているウォーカーを感じた。ここから三回曲がる間に、俺が二歩分取り戻してフィニッシュだ。
ウォーカーは角を曲がり、勢いがついたまま、段差に手をついて一回転する。
と思いきや、先ほどの二周とは違い、勢いをつけたまま、一回転、二回転、三回転。段差を二つ越え、さらに二回転してスピードを緩めなかった。
なっ。
俺がウォーカーのことを見過ぎて、自分のムーブをおろそかにしてしまったのだろうか。ここで得られるはずの、「一歩のアドバンテージ」が得られない。
いや、俺は集中できている。
完璧なコースをとっている。なんなら、二周めよりも、さらに速度は上がっているはずだ。
だが、ウォーカーは、あっという間に俺を残して走り去ってしまう。
まさか、これほどまでに、スピードに差があるとは……。
三つめの角を曲がったところでも、まだ尚、ウォーカーに十センチ以上も差をつけられている。
やばい。
勝てない。
戦術を変えなければ。
しかし。
どうやって。
今更。
どうする。
勝てない。
勝てない。
俺は焦り、ボーッとした頭で、試合前に計算し尽くされた計画のままに、ただ体を動かしていた。なんの打開策も練れず、プログラミングされた安いPCゲームのように、ただただゴールに向っていった。
ゴール。
ゴールに着くと同時に、俺は五回転近くも転がった。
もう微塵も力を出せない。
悔いは無い。全力を出し切った。
俺は、素直に、負けを認めた。
歓声が鳴り止まない。
アナウンサーが声を絞り出す。
「勝利したのは、やはり、この男 !! 生ける伝説。赤髪の悪魔。セローっ ! ウォーカー、敗れるーっ !! 二年越しのリベンジ、ならずーっ !!」
「あん ?」
俺は、仰向けに転がったまま、素っ頓狂な声を出していた。
どう考えても俺の負けだった。
一体、どういうことだ ?
俺は、ウォーカーのいるコースを見た。
ウォーカーは、失敗したというようなうっかり顔を作り、足を押さえている。
白衣を着た係が二人駆け寄り、ウォーカーの体を触っている。
「いやー、ウォーカー選手。あと一歩でしたねぇ」
「はい。三周めでスピードが上がった時は、リベンジなるか、と思いました」
「そうですね。それでは問題のシーン。VTRでご覧ください」
会場のスクリーンには、ウォーカーの走る姿が映し出される。
「第三ターンを回ったところですね」
「はい。ここまではウォーカー選手、やや有利というところです」
「そして、三つめの段差で勢いを上げて、四つめの段差に差しかかった時。ここです」
VTRは、スロー映像で進められる。
「ああーっ。ウォーカー選手。持ち上げた左足のつま先が、わずかに段差につまづいていますねぇ」
「はい。これで勢いがついたまま転倒。最後の段差を乗り越えられずに、ゴール手前で失速してしまいました」
「自分のスピードの限界を超えてしまったんでしょうか。しかし、普通の選手ならしない、いや、出来ない失敗です。ウォーカー選手ならではの失敗ですね」
「しかし、ウォーカー選手。怪我の具合はどうでしょうか ?」
「お。今、立ちました。セロ選手の元に向かっていきます」
ウォーカーは足を引きずりながら、呆然としている俺の元まで歩いてきた。
「負けちまったな」
俺はウォーカーと目が合った。だが、負けたという気持ちが大き過ぎたのか、自然と、目線をそらしてしまった。こんなにも後ろめたい気持ちになったのは、覚えていないくらいに久しぶりだ。
「おめでとう」
ウォーカーの言葉が、俺の耳に、空虚な塊として入りこんできた。
絶対に俺が勝つ。けれども、もし万が一、負けたとしても、この男にならば、悔いは残らない。
そう思えるほど、ウォーカーに対してのリスペクトは止まなかった。
だが、もちろん俺が勝つ。その自信は微塵も揺るがない。あとは、どう勝つか。ただ、それだけの問題だ。
コースはやはり障害物が多い。『チェイスタグ』で戦った感じでは、俺がミスをしなければ、ウォーカーに勝てる可能性はかなり高いだろう。先程もウォーカーは、障害物を一つ超えるのに、ギリギリではなく、三センチは無駄な動きをしていた。自分のスピードが生かしきれずに、良いタイミングで止まれない場面もあった。これが三周続けば、結構な弱点になる。
あそこでは二回転からの縦ロール。そこから手をついて、四つ足のままジャンプ。手すりを掴んで勢いを殺し、まっすぐ下に降り…。俺は、コースを見ながら、すぐに戦術を立てた。
これなら勝てる。
だが、俺はなぜか、不吉な悪寒(おかん)が、自分の背筋をそっと撫(な)でたように感じた。先ほど戦った感覚から「負けはない」と分析したが、体は自然と警戒してしまっているようだ。
いや。この感じはまずい。こう思うことは、負けへのフラグのようだ。今の悪寒は、単に、汗が背筋を落ちていっただけだ。そうに違いない。
俺は、自分の身体中を叩いて、自分を鼓舞した。
がんばれよ、俺の体。俺は、俺のことを、俺の努力を、俺の才能を、信頼してるぞ。
俺は叩いているうちに、俺の体が、「うん。わかってる。任せとけ」と、答えているような気がした。
いよいよスタートだ。
ウォーカーは軽く飛び跳ねてスタートを待っているが、俺はクラウチングスタートの体勢をとる。こうした方が集中できるのだ。
先程までは、自分の体だけに神経が張り巡らされていたが、今は、会場全体を、自分の神経が支配している。極度に集中が高まった時の状態だ。ウォーカーの動きを見ずとも、ウォーカーの動きが手にとるようにわかる。
三。
二。
一。
俺は、今までの試合を見ていて、審判の動きの癖(くせ)を覚えていた。スタートの合図の旗を持った手が振り下ろされる瞬間。肩が動くタイミングを、しっかりと覚えていた。
スタート !
一歩めは、俺の方が早かった。
だが、最初の十メートルは直線距離だ。
すぐに追い抜かれる。
これは予想通り。
棒に飛び付き、クルリと角を曲がる。
ここからは段差ゾーンだ。
俺は、跳びすぎて余分な時間を食わないように、すれすれの部分で体をコントロールし、スピードを殺さずに走っていった。
うん。調子がいい。これなら勝てる。
ウォーカーは、やはり、こういう繊細な部分が、少し雑だ。超一流ではあるが、俺のレベルには達していない。俺は、二つめの角を曲がり、三つめの角を曲がったところで、一歩だけ有利になった。
一歩だけの有利。
これが勝負を左右する。
二周めに入る。
次の直線では、俺の有利な一歩は打ち消されてしまい、逆に、一歩の有利を得られてしまう。
けれどもやはり、一周する頃には、俺が一歩だけリードをしている。
作戦通り。
一進一退とはこのことだ。
観客はヒートアップした。
たった一度のミスであっという間に抜かれさる緊張感。まるで、パンサーに狙われているニワトリの気分だ。気を抜いたら鋭い牙(きば)で切り裂かれ、フランス料理のフルコースの一品として、オシャレに毛を抜かれ、食卓に提供されてしまう。
この感覚は、『レ・テネーブル・ド・モンマルトル(モンマルトルの闇)』では感じたことのない気持ちの高まりだった。
逃げるわけではない。戦いだ。
ライバルとどこまで羽ばたけるか。どこまでこの圧力に耐えられるか。昔だったらとても耐えきれないが、今の経験値を積んだ自分になら、耐えきることができる。
いや。むしろ、全身で楽しさを味わい尽くせる。
俺はなぜか、子供の頃は大嫌いだったエビが美味しいと感じるようになった、十六歳の、あの日の感激と同じドーパミンを放出していた。
何度も抜きつ抜かれつになりながらも、ついに最終周。
一見いい勝負のように見えるかもしれないが、ウォーカーにはわかっているだろう。一周が終わるたびに、俺の方が一歩前にいる。
つまり、この勝負、俺の勝ちは揺るがない、と。
俺は、一歩だけ手前を走っているウォーカーを感じた。ここから三回曲がる間に、俺が二歩分取り戻してフィニッシュだ。
ウォーカーは角を曲がり、勢いがついたまま、段差に手をついて一回転する。
と思いきや、先ほどの二周とは違い、勢いをつけたまま、一回転、二回転、三回転。段差を二つ越え、さらに二回転してスピードを緩めなかった。
なっ。
俺がウォーカーのことを見過ぎて、自分のムーブをおろそかにしてしまったのだろうか。ここで得られるはずの、「一歩のアドバンテージ」が得られない。
いや、俺は集中できている。
完璧なコースをとっている。なんなら、二周めよりも、さらに速度は上がっているはずだ。
だが、ウォーカーは、あっという間に俺を残して走り去ってしまう。
まさか、これほどまでに、スピードに差があるとは……。
三つめの角を曲がったところでも、まだ尚、ウォーカーに十センチ以上も差をつけられている。
やばい。
勝てない。
戦術を変えなければ。
しかし。
どうやって。
今更。
どうする。
勝てない。
勝てない。
俺は焦り、ボーッとした頭で、試合前に計算し尽くされた計画のままに、ただ体を動かしていた。なんの打開策も練れず、プログラミングされた安いPCゲームのように、ただただゴールに向っていった。
ゴール。
ゴールに着くと同時に、俺は五回転近くも転がった。
もう微塵も力を出せない。
悔いは無い。全力を出し切った。
俺は、素直に、負けを認めた。
歓声が鳴り止まない。
アナウンサーが声を絞り出す。
「勝利したのは、やはり、この男 !! 生ける伝説。赤髪の悪魔。セローっ ! ウォーカー、敗れるーっ !! 二年越しのリベンジ、ならずーっ !!」
「あん ?」
俺は、仰向けに転がったまま、素っ頓狂な声を出していた。
どう考えても俺の負けだった。
一体、どういうことだ ?
俺は、ウォーカーのいるコースを見た。
ウォーカーは、失敗したというようなうっかり顔を作り、足を押さえている。
白衣を着た係が二人駆け寄り、ウォーカーの体を触っている。
「いやー、ウォーカー選手。あと一歩でしたねぇ」
「はい。三周めでスピードが上がった時は、リベンジなるか、と思いました」
「そうですね。それでは問題のシーン。VTRでご覧ください」
会場のスクリーンには、ウォーカーの走る姿が映し出される。
「第三ターンを回ったところですね」
「はい。ここまではウォーカー選手、やや有利というところです」
「そして、三つめの段差で勢いを上げて、四つめの段差に差しかかった時。ここです」
VTRは、スロー映像で進められる。
「ああーっ。ウォーカー選手。持ち上げた左足のつま先が、わずかに段差につまづいていますねぇ」
「はい。これで勢いがついたまま転倒。最後の段差を乗り越えられずに、ゴール手前で失速してしまいました」
「自分のスピードの限界を超えてしまったんでしょうか。しかし、普通の選手ならしない、いや、出来ない失敗です。ウォーカー選手ならではの失敗ですね」
「しかし、ウォーカー選手。怪我の具合はどうでしょうか ?」
「お。今、立ちました。セロ選手の元に向かっていきます」
ウォーカーは足を引きずりながら、呆然としている俺の元まで歩いてきた。
「負けちまったな」
俺はウォーカーと目が合った。だが、負けたという気持ちが大き過ぎたのか、自然と、目線をそらしてしまった。こんなにも後ろめたい気持ちになったのは、覚えていないくらいに久しぶりだ。
「おめでとう」
ウォーカーの言葉が、俺の耳に、空虚な塊として入りこんできた。