Ep.02 悪の卵 (Oeuf)

文字数 1,818文字

 僕がいつモンマルトルに流れ着いたのか、それは定かではない。気づいたときにはここにいて、ここで生活をしている。周りの人間も同じようなもの。それが僕の人生だ。ただ僕にとって幸福だったことは、人生が始まった時には既に自分がこの街の組織の一部として組み込まれていたことだ。もし一人だけで生きるのならば周りはすべて敵になるが、組織に入っているだけで周りはすべて味方になる。
 誰が偉くて誰の世話になっているのかも僕には全くわからないが、知る必要もないし、知ろうとも思わない。子供のうちから仕事が与えられ、食事が与えられ、寝るところが与えられ、そして金さえ稼げば自由な時間もある。学校にはいかなかったが、それに比肩するほど、街や組織ではたくさんのことを学ぶことができた。

 この組織では、お金を稼いで上納しなければ、共同のボロアパートにすら住まわせてはもらえない。そのため組織の人間は、観光客を相手にするか、風俗をしてお金を稼いでいる者が多かった。人より秀でたものが何もなければ、人を騙すか体を売るしかお金を稼ぐ方法はない。
 僕は子供だし顔も整っているということで、観光客たちから憐みを買うのにちょうどいい素材だった。汚い格好でサン・クレール寺院の下に座り、人懐こく愛想を振りまけば簡単にお金を恵んでもらえる。
 また、家で内職として稼ぐために、大人に売ってもらう塗り絵のような絵画や、すぐに切れる縁起の良いミサンガなどの作り方も教えてもらえた。これもいくらになるのかはわからないが、住む場所を与えられているので当然だと言われたので、暇がある時はよく作っていた。

 ある日の午後、僕はバルベス通りを歩いていた。ここは移民が多く住んでおり、僕のような白人は少ない。サンピエール広場などのように観光客の多い地区では現在ブドウ収穫祭が開催されている。だが、僕はまだワインという苦くて酸っぱい飲み物に興味がない。そこで同じようにマルシェ(市場)で賑わっているこのバルベス地区へとやってきたのだ。どうせ何も買う金はないが、暇つぶしにはちょうどいい。
 寒い時間帯があるこの季節になると、洋ナシや栗が販売されるようになる。栗は一度、虫が入っていて苦かった思い出があるのでもう二度と食べたくない。ジロール(アンズ茸)やセップなどの高級キノコがすごく安い値段で販売されているが、きっと全て偽物なのだろう。もっとも僕は、一生偽物も本物も食べない人生だろうがね。

 このようにして僕がマルシェをぶらつき回っていると、まだ十月だというのに衣類を十枚は羽織った白人の大男が近づいてきた。無精髭でたるんだ腹を抱えている。目がトロンとしているところを見ると、酒か薬を嗜(たしな)んでいるのだろう。
 こういう人間に関わると碌(ろく)なことがない。僕は構わず通り過ぎようとしたが、突然そのおじさんに両肩を抱えられた。顔を見ると笑顔だ。常人の顔つきではない。口臭が酷い。顔を背(そむ)けたい僕に、おじさんは声をかけた。
「お前、今日は何日だか知ってるか ?」
 僕はまだ日にちというものがよく理解できていない。理解する必要のある人生を送っていないからだ。不思議そうな顔をするとおじさんは続けた。
「十月十日だよ !」
 おじさんはまた豪快に笑った。
「お前は何歳だ ?」
 自分の年齢など考えたこともない。僕はまた、わからないという顔をした。
「十歳だよ !」
 おじさんは確固たる自信を持って叫んだ。
「ばーっはっはっはっは」
 この男は何者なのだろう。もしかして、僕の父親なのだろうか ?
 僕が言葉を発しようとしたその時、おじさんは立ち上がり、聞いたことのない歌を歌いながら市場の人混みへと消えていった。
 えっ ? もしかして僕の父親 ? 
 人生においてタイミングというものは時に非常に重要なものである。けれども僕はその時はタイミングを逃し、彼を追いかけることが出来なかった。そしてこれ以降、僕はこの男とは二度と会わなかった。

 一人で道を歩きながら、僕はずっと今の出来事を思い出していた。自分の年齢も誕生日も知らなかった僕。ただ、十月十日に酔っ払った知らないおじさんから、「お前は今日から十歳だ」と言われた。
 そうか。僕は今日が誕生日で、今日、十歳になったのか。
 そう決められるとしっくりくるもので、それ以降、僕は十月十日が自分の誕生日だと思うようになった。初めて自分の中で自分というものを考えた時間だった。
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