Ep.62 国家機密 (Secrets d’État)

文字数 2,040文字

 カジノは二十四時間営業しているので、深夜に帰宅するディーラーもいる。もちろん、危険が潜んでいるので、家まで送り迎えされるが、その中に、郊外の、庭が広い一戸建てに住んでいる男がいた。
「また明日ー」
 男は、門の前で別れを告げ、門を開ける。
 門の鍵をかけた時、背後には、黒い影が、音もなく張り付いていた。送迎車のエンジン音は、徐々に聞こえなくなっていく。
「動くな。声を出しても殺す。指一本動かしても殺す。お前ではなく、お前の家族を殺す」
 男の左腕を後ろ手にねじり、首に黒い刀身のナイフを当て、ウォーカーは、低い声で呟いた。
「な…」
 ウォーカーの合図に合わせて、庭に隠れている『レ・フレール・デュ・マル(悪の華)』が十名前後、隠れていることを知らせるように、ザワザワと動く。その中から、細めの男がゆっくりと姿を現した。変装しているエリザベータだ。声も太くしている。エリザベータは、ディーラーの右手をとった。
「痛っ !」
 ディーラーは、針を刺されたような痛みに顔を顰(しか)めた。
「動くな」
 ウォーカーは力をこめる。エリザベータは不敵に笑った。
「不躾(ぶしつけ)、申し訳ございません。まずは、私たちを信用していただくために、力があるということをお見せしたかったのです。庭に何人も仲間がいるのが、おわかりですよね ? 私が一声かければ、この屋敷は爆破されます。あなたの妻子ともども」
 ディーラーの顔が青ざめた。
「けれども、私たちの、誰も損をしない提案を受け入れてくだされば、明日からも問題なく、平穏な日々を送ることができるでしょう。その上、協力金として、十万ポンド(約千五百万円)を、今すぐこの場で、現金でお渡しいたします。誰にもバレない、問題のないお金です。もし不安でしたら、あなたの銀行に振り込んでもいい。口座は知っておりますから」
「要件は…、なんだ ?」
 ディーラーは、ジョンブル(イギリス紳士)の誇りがあるというところを見せたいのだろう。場合によっては断る、という顔をした。エリザベータは、逃げ道を用意する。
「私たちの要件はただ一つ。誰にもバレないように、自然に、キングに会わせたい人がいるのです。けれども、VIPか、十万ポンド(約千五百万円)以上勝たなければ、キングには会えません。そこで、あなたの手伝いで、勝たせてもらいたいのです。勝った金額は、その日のうちに全てまた負けて、『ザ・リッツ・クラブ』に返すようにいたしましょう。部下たちにバラけて負けさせます。その日の帳簿を見れば、いつもと変わらない金額になっているでしょう。そして、一度でもキングに会わせることができれば、もうそれ以降、『ザ・リッツ・クラブ』にも、あなたの前にも、顔を出しません。なんの痕跡(こんせき)も残さず、誰も損をしないようにします。どうでしょう ?」
「…誰を勝たせるのだ ?」
「明日やって来る、赤い長髪の、若い貴族です。内密に話したいことがあると、さる高貴な方から、私たちに依頼が来ました」
 エリザベータは、ディーラーの耳に近寄り、小声で囁(ささや)いた。
「HMTQ(女王陛下)」
 スーツを開き、うちポケットから偽物のSAS(スペシャル・エア・サービス)のエンブレム入り証明書を見せると、ディーラーの意固地な心が陥落した。エリザベータレベルともなると、雰囲気で分かる。鍵が開いた時と同じような感覚だ。
 ディーラーは、エリザベータたちのことを、SASというイギリス陸軍特殊部隊だと思い込んだ。イギリス王室からキングに内密の話があるから、王家の使者を会わせるために、このような形で作戦を仕込んでいる、と信じたのだ。
 エリザベータは、そっと、ディーラーから体を離した。
「イエスかノー。それだけで答えてください」
「…イエス、だ」
 答えを聞いて、ウォーカーは、ディーラーが急に暴れたりしないことを確認しながら、ゆっくりと手を離した。
「ありがとうございます。ただ、これは重大な任務ですので、万が一を考えて、先ほど右手に、ICチップを埋め込ませていただきました」
 ディーラーは、先ほど刺された手の痛みが気になっていたので、正体がわかって、半分不安ながらも納得はできた。
「そのチップは、あなたの鼓動とリンクしています。もし外した時は、あなたの家族に…」
「大丈夫。わかった。従おう」
「ありがとうございます。チップは、一週間で電波が切れます。皮膚の薄い場所に埋めましたので、電波が切れたら、取り出してください。それでは」
 エリザベータが指を鳴らすと、組織の一人がアタッシュケースを持ってきて、ディーラーの前で、中身を広げて見せる。
「間違いなく本物です。番号もバラバラになっております。ご査収(さしゅう)ください。これでもう、私たちは会うことはないでしょう」
 エリザベータが助走をして、華麗に塀を乗り越えた時には、庭には誰もいなくなっていた。
 ディーラーが一人、アタッシュケースを持ったまま、ポツリと突っ立っているだけだった。
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