Ep.07 誓約 (Le Serment)

文字数 4,043文字

 店内は狭くて暗く、たくさんの棚が並んでいた。棚には本やDVD、見慣れないが何に使うかは知っているような、まだ幼い僕にとっては都市伝説ともいえるような道具、いわゆる「大人のおもちゃ」がぎっしりと陳列されている。お客は一人もいないようだが、もしいたとしても、この棚で区切られた通路では目視することが困難だろう。どうせ知り合いなんて誰もいないのだが。
 僕は初めて入るアダルトショップに興奮していた。自分のこれからの運命も、目の前の小男でも、太って禿げている男でもなく、ちょっとだけくたびれていても昔は美しかったであろう金持ちの奥方様にあてがわれればいいな、と楽観的に考えようとしていた。
 が、ふと目線のいった棚に、男同士が抱き合っている表紙のDVDが並んでいて、僕は思わず悪寒が全身からこみ上げてきた。
 小男は笑った。
「ハハハ。お前にはまだ早いか。こっちだ」
 僕は慌てて男の後をついていった。突き当たりの角を曲がると、突然、壁、いや、大男があらわれた。大男は広い背中を向けて座っており、机に向かってPCをいじっている。
「シャモー(フタコブラクダ)様」
 小男に囁かれて、大男はこちらを振り返った。重みで椅子が軋(きし)む音がする。大男は緑のエプロンをまとっている。眠そうな二重と、ヌボーッとした動き。年齢は四十歳に届くかどうかといった感じだ。
 大男は、ゆっくりと口を開いた。
「この子が、噂のプゥサン(ひよこ)君かね ?」
「はい」
 セロを連れてきた小男は、憧れを込めた口調で答えた。
「思ったより、大きいねぇ」
「まだ十四歳です」
「うん、うん」
 大男は、僕の全身を舐め回すように見た。
「で。シャルトリュー(灰色猫)君から見てどうだ ?」
「なかなかの素質と思われます」
「ん」
 自分の上役よりもはるかに偉いであろう小男が敬語を使うのだから、この大男はさぞかし偉い男なのだろう。だが、大きい体格にしては偉い男にはどうしても思えない。大男は、今度は僕に話しかけてきた。
「ウンバロールという。愛称はシャモー(フタコブラクダ)だ」
 ウンバロールの笑顔につられて、緊張はしているものの、僕も精一杯、にやつきまくってみた。どうせ僕に選択肢はない。
 ウンバロールは、ひとつうなづいた。
「プゥサン君。君は空を飛びたいと聞いたぞ」
「はい。飛びたいです」
 僕は、馴れない丁寧語を懸命に使った。ウンバロールは尋(たず)ねた。
「君にとって、空を飛ぶとはどういうことだい ?」
 言われて初めて考えた。空を飛びたいというのは、あの日パジェスたちを見上げた時の空があまりにも青く美しく、自分のいる下町の路地があまりにも時間の止まった見すぼらしい世界だったから思った言葉だ。だが、こうしてパルクールの腕が上がった今も、まだ空を飛べているとは感じていない。言葉では言い表せないが、なにか自由ではないというような、名前も知らぬ上役から首輪をつけられて紐でくくられているような気分に常にある。
 ここから逃げるにはどうしたらいいのか。上役よりもさらに上であるピャルーは、上役よりも自由に見える。ピャルーよりもさらに上役であるウンバロールは、さらに自由に見える。体が軽くなって空をも飛べるというのは、こういうことなのではないだろうか。
 僕は、これを一言にまとめて口に出してみた。
「自由になっても生きていける力が欲しい、です」
 ウンバロールは、長い時間を無言で考えていた。僕は、ウンバロールの伏した目から、長い睫毛(まつげ)が生えているのをじっと眺めていた。
「なるほど」
 ウンバロールはさらに繰り返した。
「なるほど。生きていける力。自由になる。全て抽象的だ」
 僕は、なんと言っていいのか分からなかったので、ウンバロールの次の言葉を待って、ずっと黙りこんでいた。
「プゥサン君。君には、空を飛ぶための具体的なプランはあるのかね」
「精一杯羽ばたくだけです」
 ただ、機械的な反応で言葉が出てくる。
「もし君の羽が、空を飛ぶのに適していないとしてもかね」
「はい」
「羽ばたいた結果、飛べずにドブ板に倒れこんで、車にひかれて道路にしかばねを晒(さら)すような結果になるとしてもかね」
「はい。だとしても、僕は、空を飛びたいのです」
 僕は、自分の頭が完全に考えることをやめていると感じていた。あまりにも理知的でない。ただ、本能に眠る「逆らいたい」という気持ち、「抗いたい」という気持ちを抑えられないでいた。これは、あまりにも偉い男であるウンバロールが、あまりにも話しやすく、抑えつけてこないからこそ出てきている承認欲求に、その一因があるのだろう。つまるところ、少年ゆえのカッコつけ、だ。
 止めたいけれど止められない。僕の脳が冷たく動きを止めるほど、僕の体は荒ぶれに荒ぶれ、熱く熱く燃え盛っていた。
「とにかく羽ばたくだけ。それが君のプラン。無謀。無計画」
 ウンバロールは、じっと僕の瞳を見つめてきた。その目の奥は深かった。
「嫌いじゃない。嫌いじゃないな」
 深い海に抱かれるように思える。
「だが、プゥサン君。それでは、空は飛べない。空を飛んでいる私には、それがわかる」
「それでもいい」
「それでもいい。だが、そうではなく、空を飛べたら、もっと良くはないか」
「それは……」
「そうだろう ?」
「……はい」
 そりゃ、空を飛べればそれに越したことはないではないか。
 一度「はい」と肯定すると、そのあと人は肯定をし続けたくなるものだ。僕はウンバロールに対して、抗いたい気持ちが薄れていくのを感じた。ウンバロールは、にこやかな笑顔でうなづく。
「世界は平等ではない。もともと羽のあるものもいれば、一生空を飛べないものもいる。君は自分でもご存知の通り、飛べない種類の鳥としてこの世に生を受け、さらに念入りに、羽を切られて、湖の底に重りをつけて沈められている存在だ。普通なら、空を飛ぶことなど絶対にできない。いや、本来なら考えることすらできないはずだ。ところが、君は、実に運がいい。空を飛びたいと思うことができ、私に出会うことができた。つまり、空を飛べる可能性がでてきた」
 僕は、初めて聞く言葉ばかりで、言っている内容の半分もわからなかった。だが、ウンバロールの言葉が神聖な言葉に聞こえた。大きなウンバロールは、椅子から降りて小さく屈み、僕と同じ目線にきた。顔が、目が、鼻が大きい。大人の匂いがする。ウンバロールは、そのまま太いベースの弦を弾いているような声で話を続けた。
「だが、プゥサン君。神が信仰をしないと救いの手を差し伸べてはくれないように、君も、私に、命を捧げると思うくらいの信仰をしてくれないと、私は、君を、この溝底から救い出して、空を飛ばせてやることはない」
 どういうことだ ?
 僕は唾を飲み込んだ。
「プゥサン君。君は、私を信じ、どんなに大きな犠牲を得ても、空を飛びたいという覚悟はあるかい ? ないなら、この話は、これで終わり。元の長屋に戻り、飛べない獣たちと同じ檻の中で、自分の現状について嘆き、人の悪口を言って過ごし、やがて歳をとり、死に至る人生を送るといい」
 僕は、じっとウンバロールの目を見て考えた。
 この大きな男を信じる、か。
 確かに僕にとっては、まるで神のように大きな存在だ。深すぎて、底がまったく見えない。
 もし、今と同じ生活を続けていても、結局、僕は上役を信じ、今と同じ生活が保障されていると信じ、何かいいことが起きるといいなと偶然を信じて生きるのだろう。
 だが、ウンバロールを信じれば、上役よりも、さらに自分を空に飛ばせてくれるのは間違いない。とにかく、今までの自分の人生において、パルクール以来の信じるに値する大きなものだ。
 しかし、そのための大きな犠牲とはなんだろう。神に対する捧げ物ならば、鹿の命や処女の命が有名だが、ウンバロールには何を捧げればいいのだろう。この男になら、僕の童貞や尻の穴くらいはいくらでもくれてやろう。
 ただ、体の一部を奪われるとしたら、空を飛べなくなる。それは嫌だ。だが、死なないくらいの血ならば吸われてもいい。
 他に僕が捧げられるものはなんだろう。雨露をしのぐアパートの共同部屋なんて、この男にはいらないだろう。時間か。浅い上役との関係か。パルクールと仲間たち。これは捧げるには惜しいが、空を飛ぶためには犠牲にすることもやむをえないか。しかし、そんなものをウンバロールは欲しがるのだろうか。
 こんなことを考えながらも、そもそも僕には、何の決定をする権限もないことはわかっていた。上役の言う通りに毎日を生活し、生かさせてもらう。それだけの命だった。
 それが、上役より偉い人間の、さらに上の人間から覚悟を聞かれる。そのように偉い者が自分に選択肢を与えてくれること自体が、僕にとっての感激だった。ウンバロールの大きな体を見ながら考え続けているうちに、もはや自分程度の持ち物ならば、内臓でも手足でも、この偉い人間が望むのならば仕方がないと思うようになった。
「どんな犠牲でも払います」
 僕は、断固たる決意で、はっきりと、ウンバロールの目を見て忠誠を誓った。ウンバロールはニコリとうなづいた。その顔は笑顔でいながら、今までで一番、精悍で男らしい顔つきであった。言葉遣いもガラッと男らしく変わった。
「そうか。これで、儀式は終わりだ。君の目から、私は、決意を感じた。セロ。今から、君は、私のファミリーだ。私は、私の子である君を、命をかけて守ろう。同じように君も、私に絶対の忠誠を誓え。私が死ねと言えば素直に従え。そのかわり、君には空を飛ぶ方法を授けよう。ま、もっとも」
 ウンバロールは真面目な口調から一転して、茶目っ気のある口調で僕に片目をつむった。
「子どもに向かって死ねだなんて、私は絶対に言わないがね」
 あたたかい。
 自分の心にこういうタイプの高揚感を感じたのは生まれて初めてだった。
 この笑顔で、僕は、死をも恐れぬ無敵の信者になっていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み